生きる極意、病気や苦悩を少なくする方法。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 共鳴(共振)と調和、この二つがキーワード。なんのことか、わからないかもしれない。つまるところ、この二つを体感し、与えられた時間を、頑張って生きる。それが、生きる極意であると感じる。頭のいい人は、何かを突然ひらめく。独創的な考えをもつ。それは、普通では、出てこない。なぜ、できないか、固定観念で、縛られているからである。その固定観念を生むのは、言葉である。こうであるべき、こうしなければ、こうだ、頭の中に、言葉で、フィルターを作るからである。不安は、言葉でつくられる。恐れや絶望も、言葉で作られる。もちろん、意思表示をするには、言葉が必要である。しかし、その言葉で、自分をしばってしまう。そのことで、知らないうちに、選択肢を一つに絞ってしまう。


 世の中は、目に見えないもので、満たされている。スマートフォンのアプリでテレビをつける。テレビが見える。チャンネルを変える。また、かわる。テレビの電波は、目に見えない。いろんな電磁波がうじゃうじゃある。それが世の中のあるがままの状態である。テレビをつけ、そのチャンネルを一つ選ぶ、無限にあった電磁波をひとつ、選んで、ひとつの世界をみる。それが、すべてだと感じる。携帯電話、この電波もうじゃうじゃとんでいる。自分の番号を受信する。その番号から発信する。無限にあるものものから、ひとつ、選択していることになる。自分はひとつ、絶対の存在だと、普通はおもう。そして、知らない間に、言葉で自分自身を縛ってしまう。こうあるべきだと、ひとつの体制が、ひとつの教義ができてしまう。


 船が難破して、海に放り出されて救出された人の話をきく。助かった人の話の共通点は、ただ、波間に漂っていたという。恐れや不安もあったろうが、その波間を受け入れ、その状況をただ受け入れていたという。そのうち、誰かが、それをみつけ、救出する。奇跡に近い話だが、ほとんどがそのパターンである。見つけた人の話を聞くと、たまたま、近くを通ったら、遭難している人を見つけた。たいてい、救出した人は、たまたま、なのである。客観的にみれば、奇跡にちかい、しかし、奇跡も、しばしばあると、奇跡を起こしやすい条件があると言わざるを得ない。そうなれば、奇跡ではないのだが。


 病気で、生きる人と死ぬ人がいる。最後はだれでもが老衰で死ぬのだが、ソフトランディングできる人と、墜落するひとがいる。ある意味、難波船での救出と同じである。がんにかかって、同じ治療をしても、ソフトランディングする人もいれば、急に落下する人もいる。たぶん、ソフトランディングする人は、こうあるべきだと、考えずに、あるがままの状態で、この世のリズムとドリフトしていると感じる。妻をなくし、この世でひとり、生きていれば、あの世に行きたいと願う。自ら、生きることを停止するだろう。生きること諦めれば、眠るように、あの世へといく。



 現在、自分がいる。この世がある。なら、ひとつに収縮させないで、あるがままの波動を受け入れるのがいい。こうあるべきだ、こうしちゃいけないという判断をサスペンドすべきである。あたかも、海に漂流している人のように、自分を捨てて、あるがままの状態を

受け入れたらいい。そのとき、自分でシャットアウトしていたものが、自分を通過していくのがわかる。過去も未来も、この宇宙に漂うすべてが、自分を通過していくのが、わかる。そして、その中で、自分の心の中に何かが芽生えてくる。そう、そのとき、自分は何かと共鳴している。全体が自分になり、自分が全体となる。そして、そのなかに、はっきりと、そのリズム、波動に、美しさを感じる。それが、ひとつの調和、この世がこの世として成り立っているのは、調和するものがあるからである。そして、それと共鳴する。共鳴を阻害するのは、つよく自分をまもろうとするものである。弦をミュートしたら、きれいに音が振動しないのと同じである。


 自分は、一個のエゴである。つよく、つよく自分を保持しようとする。あたりまえである。しかし、そのエゴは、永遠ではない。いつか、消えてなくなる虚しいエゴである。自分は全体の一部である。ある意味、自分の中に全体がある。全体は、なぜだかある。なぜか、この世がある。それは、万物をはぐくみ、あるがままの状態を提示している。そこに美しい調和や秩序がなければ、万物はうまれ、生きていない。それと共鳴し、すくなくとも同じ振動をもつのが、善であると感じる。善と感じず、悪と感じる人がいれば、そのようにいきたらいい。それは人の勝手である。その共鳴を阻止しているのが、エゴであり、ある意味、言葉によって作られた固定観念である。


 だから、走るのもいい。だから、禅をするのもいい。だから、ヨガもいい、だから、歩くのもいい。だから、山へいくのもいい。だから海へいくのもいい。だから、旅にでるのもいい。言葉からはなれ、その波動を感じることだ。だから、私は、ギターをひいて、そのハーモニーに心を託す。同じこと。そして、全体の波動のありかを、ある人は神とよび、ある人は仏と呼ぶのかもしれない。


 それでも、亡くなる人がいる。若くして、病気で亡くなる人がいる。眠るようにあの世へと行く人がいる。もし、100%、宇宙の波動と共鳴したら、魂は、拡散する。眠るように、溶けていく。そう、きっと、80-70%ぐらいの共鳴でいい、20-30%は、エゴをもつこと。そうして、だんだんとそのエゴの%がへってきて、眠るようにあの世へと消えていくことになる。それでいい。