新自由主義の概説と批判  | 批判的頭脳

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noteにて、「経済学・経済論」執筆中!

「なぜ日本は財政破綻しないのか?」

「自由貿易の栄光と黄昏」

「なぜ異次元緩和は失敗に終わったのか」

「「お金」「通貨」はどこからやってくるのか?」などなど……


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昨今、安倍政権の誕生に相俟って、"規制改革""規制緩和"という字が経済ニュースを躍ることが増え、労働規制緩和海外からの労働者流入規制の緩和農業の規制改革など、いわゆる"自由化政策"の発表推進に関しては枚挙に暇がない。

また、TPPの交渉参加を通じて、貿易自由化、非関税障壁の撤廃(国内規制の撤廃も含まれる)、金融自由化なども進んでいくことになるだろう。

これらの政策の底流には、アダム・スミスの時代や第一次グローバル化の時代(大航海時代にはじまって20世紀前半まで)に源流を持ち、20世紀後半から隆盛をはじめた新自由主義がある。

非常に今更感が漂う上、すでに人口に膾炙した話を繰り返して申し訳ないが、"盲目的な"新自由主義批判がまだまだ目立つ現状においては有意義であるため、このエントリを書くことにした。

まず新自由主義というイデオロギーについて検討してみてよう。

新自由主義の根幹のテーゼは、「人々のあらゆる自由な選択の保障は、人々を必ずおのおのにとって最善の状態に導く」というところにある。

よって、もし人々の状態が最善でないとすれば、それは自由な選択の保障の不全にあるのであって、そのためには自由な選択に対するあらゆる障害を取り除くという方策が最善であるということになる。

例えば、日本の農業の生産性が各国に遅れを取り、競争において不利な状態であって、その存続が危ぶまれるとなれば、新自由主義的な最善の政策は、日本における農業の数々の規制を撤廃して、自由競争を促進することとなる。

この思想の裏には、厚生経済学の基本定理があり、(本当はいろいろな前提条件があるが)完全競争による均衡はパレート効率的(全体で最大限の効用を実現している状態)であるという理論的裏づけがある。

この定理は数学的に強力で、さまざまな例外の設定なしには、競争が最善であることに疑問符をつけることが出来ない。したがって、"真面目に"経済学を勉強した人々ほど、競争に関して非常に肯定的になる。

また、各種産業の自由化、特に貿易自由化や補助金の撤廃は、比較優位の考え方からも支持される。
比較優位とは何か。
A国で年間一人あたり農産物100万円分、自動車1億円分作れるとしよう。B国で年間一人あたり農産物50万円分、自動車3000万円分作れるとしよう。B国国民はA国国民に対していずれの生産性でも劣っているけれど、"国内"で農産物生産性と自動車生産性を比較すると、A国では農産物生産性/自動車生産性=1/100、B国では1/60となって、B国は農産物生産が"比較優位"にあることがわかる。この場合、B国が農産物に特化して、代わりにA国が農産物生産を減らしつつB国のこれまでの自動車生産を代替すること(国際分業)で、全体の生産量が農産物・自動車双方で増えることが計算すればわかる。なぜならば、A国では農産物1000万円分(10人分)を生産しようと思ったら、自動車の生産を10億円分(10人分)犠牲にしなければならないが、B国で1000万円分(20人分)を生産するとき、自動車の生産を6億円分(20人分)犠牲にするだけでよいのと同時に、自動車生産については逆で、A国の方が農産物生産の犠牲を少なく済ませることができるからである。

比較優位も数学的には正確な定理であり、色々な条件を加味しない場合、保護貿易や産業保護は必ず打破すべきものとなる。これはグローバリズムの進展に直結する。

他にも、所得への累進課税や法人税も、新自由主義上では批判の的になる。このような恣意的な税制は、高所得者や法人による"自由選択"を物理的に阻害しているからだ。
これは見方を変えれば、高所得者や法人の行動計画を阻害し、政府が代替していると見ることが出来る。
しかし、政府は競争の埒外にあるので、完全競争による果実をその分だけ失うことになる。その果実とは具体的には、高所得者や法人による"効率的な"投資や消費などになるのだろう。

いま述べた政府の"非"効率性は、小さい政府を支持する理由にもなる。政府は、インフラを建設するにせよ、教育環境を整備するにせよ、各種研究を行うにせよ、市場からその分資源を調達することになる。しかし、競争を行わない政府は、効率改善のプロセスを持たないので、調達した資源を民間が使っていた場合の利益(逸失利益・機会費用)分だけ人々は損することになる。
したがって、政府の活動は可能な限り小さくなければならない。



すでにこういった考えには、私が声を上げるより前に、あまりに多くの批判が寄せられている。

その急先鋒にはスティグリッツが居る。スティグリッツは情報の非対称性の研究の一人者であり、"市場の失敗"を長らく研究してきた経済学者である。
スティグリッツ本人の概説によれば、市場の失敗は、不完全競争のみならず外部性の存在、情報の不完全性や非対称性の存在、リスク市場の不在(事業や投資へのリスクに対して保険をかけられない状態)があると発生し、効率的な結果を生み出せないとした。この場合、規制は"必要"になり、政府がそれを行うことで、パレート改善(パレート効率の状態に近づくこと)ができると考える。

スティグリッツが世界の99%を貧困にする経済で例示したのは、金融派生商品(デリバティブ)だ。デリバティブを扱う金融機関は、店頭市場(顧客と証券会社による取引市場。対義語は取引所市場)を守ることで、情報が不完全な顧客から資金を引き出すことに成功し、そのことがサブプライムローン等の不自然な拡大とその崩壊による金融危機を招いた。
不完全情報に対する処方箋としては、規制をせずに政府が情報の周知をすることが挙げられるが、これが現実的でない場合(政府広報がすぐさま周知徹底を実現できない場合や、政府がそもそも完全情報状態でない場合)、代替的に(取引等の)規制が有効になる

他にも、タクシー市場についても似たようなことがいえる。タクシー市場は、日本において昨今台数規制(参入規制)が復活するということで各所で話題になった

タクシー規制緩和については国土交通省からペーパーが出ているが、世界各国で行われたタクシー規制緩和は、基本的には価格・台数双方の規制緩和を伴うものだったものの、最終的に台数規制が復活したものが多い。(タクシー自由化の最右翼である高橋洋一も、世界の台数規制の存在を認めている。)
その理由として、引用した国土交通省の論文によると、運転手自体の質の確保が難しくなっていることと、運転手の賃金の低下が生じていることが挙げられている。

以下は私見だが、運転手の質については、実際に利用するまでに知ることが難しいし、その情報を周知することも容易ではないことから、消費者が適切な判断を行うことが困難なのではないだろうか。こういった場合、参入にあたって指導等を伴う規制を行うことが有効になるだろう。
また、運転手の賃金の低下は、タクシーによって得られる収入の予想が難しく、参入に必要な投資が相対的に少ないことが、労働力の過剰投入を呼んでいることに原因があると考えられる。
日本の場合、価格規制だけを残すという非常に特殊な規制改革が行われたが、その場合でも、労働力の過剰投入による収入低下が観測されたそうだ。
注:日本のタクシー規制を語るにおいて、価格規制を放置して参入規制を緩和したことがすなわちタクシーの収入低下を招いたとする論調があるが、各国の例では、価格規制の緩和撤廃があっても同様の事態が生じていることから、この論調は肯定できない。労働力の過剰投入は、収入予想のミスによって生じるものであって、そこに価格規制の有無は関わらない(予想に織り込まれるはず)からである)
こういった状況においては、タクシーにある種の規制をかけることは、有意義な政策手段の一つになるだろう。

上述において、"自由"な競争の実現は必ずしも利益があるわけではないということがわかる。



比較優位についても、スティグリッツは批判的だ。比較優位の議論は、それによって衰退する産業の従事者が、成長する産業の従事者にすぐさま置換されることが前提とされている。しかし実際の経済動態を見ていると、そのようなことは起こらず、衰退産業の失業者は固定化され、その分の厚生は低下し、産出量も減ることになる。

グローバリゼーション・パラドックスを著したダニ・ロドリックは、デイヴィッド・キャメロンの"貿易の開放によって政府が拡大した"という論文を紹介した。ロドリックがその原因について研究したところ、貿易拡大によって生じたリスク(特に、上述した失業リスク)社会保障や公的雇用の拡大によって相殺することを求める社会保険動機』が、もっとも説明力があるとわかったと述べている。

比較優位の果実を求めるにあたって、生じる失業者を助ける『大きな政府』が必要になるという皮肉がそこにある。

また、ロドリックは、比較優位によって生じる生産性の改善は、あくまで現時点での生産性におけるものであって、生産性成長を保障するものではないことも指摘している。確かに比較優位による生産性改善は技術進歩に近似的だが、比較優位による生産調整が進めば進むほど、それによって得られる果実は小さくなるのである。

一方でロドリックは、比較優位に基づく国際分業は、むしろ経済成長を阻害するものである可能性を指摘している。実際、20世紀前半にかけて、輸送費用の下落に伴い、アジア・南米は一次産品生産の生産拡大と引き換えに産業活動の衰退を味わい、工業の発展の可能性を潰すこととなってしまった。
例外として、南北戦争を経験してまで工業製品の高関税を守ったアメリカや、大規模な産業政策と関税自主権の希求を行った日本は、当時の比較優位には明らかに逆らっていたが代わりに大きな経済発展を手にすることが出来た。
サックスとワーナーが発表し、グローバリズムの強力な論拠となったEconomic Reform and the Process of Global Integrationでは、貿易開放度と経済成長が相関していることが示されたが、ロドリックは、かつて高関税や輸入規制などによって産業を保護し、成長させた国々(韓国、台湾、インドネシアなど)が産業発展ののちに貿易を開放したという経緯を無視していると批判し、この論文は成長のために貿易開放することの有効性を証明しないと結論付けた。
また、アルゼンチンやインドにおける失敗で評判の悪い輸入代替工業化も、全体的な実績は良く、採用していた南米・中東・アフリカ各国の生産性の成長に関しては、輸出主導型の東アジア諸国を上回っている時期もあるという。(それでも成長が比較的緩やかだったのは、投資率=貯蓄率の差によるものだったそうだ)

上記の議論を踏まえると、農業を再生させるにあたって、農産物の貿易自由化・規制緩和や、農業規制の緩和を以ってするという議論には大きな疑問符をつけざるを得ない。もしそれを行うならば、それは比較優位に従って農業を淘汰するときであろう。当然それは安全保障上大きなリスクを生むことになるが・・・。

ともかく、以上の論理から、比較優位に基づいた自由化(産業保護の否定)は、経済厚生の面から見て無条件の肯定を得られる考え方ではないと言える。

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2015/4/17 追記
比較優位について、重要な指摘をひとつ忘れていた。
雇用、利子及び貨幣の一般理論23章でケインズは重商主義を擁護するという、経済学者としては極めて異例の態度を取った。その方法論については一貫して批判的であるものの、金本位制によって貨幣供給に蓋がされた状態においては、雇用の拡充のために貿易黒字拡大による貴金属獲得が唯一の"金融緩和"手段だったという点で、重商主義者の分析は正しかったと述べたのである。
実は、これは流動性の罠が生じている不況経済でも似たような議論が出来る。流動性の罠については他のエントリ(あれこれ)を参照していただこう。流動性の罠においては、金融政策が貨幣流通量を操作できなくなり、財政支出や輸出などの支出水準が貨幣流通量を左右するようになる。このとき、もし貿易のさらなる自由化が貿易黒字を縮小するような効果を持っていたとしたら、貨幣流通量の減少を通じて不況を悪化させることになる。
より別の視点からも評価できる。貿易の自由化が進めば、比較優位に従って分業が進む。その結果、生産できる財は増え、その時点での生産効率が増加するというのが比較優位論の結論であった。しかしこれは、財の取引に要する貨幣が十分に供給されていればという留保が必要だ。価格が粘着的という現実的な想定に基づくと、特に支出水準が変わらない場合すなわち貨幣流通量が変わらない場合は、取引量の下落で解決する。効率は改善しているのだから、この場合設備の遊休と失業で均衡に達することになろう。価格がある程度下がる場合でも、その時点ではフィッシャーの債務デフレ効果に基づき、支出水準が縮小して産出均衡点は引き下がることになってしまう。
現実の経済は、比較優位論が想定した物々交換経済(当然セイの法則が成り立つ)ではなく、貨幣経済であるので、こういったシチュエーションが起こり得るのである。
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所得の累進課税や法人税に対する批判は、主にトリクルダウン理論とセットで語られることが多い。
しかし、資本主義経済はプレーンな状態なら基本的に格差を拡大させていくという事実が、トマ・ピケティから指摘されている。
特殊な事情がない限り、自然と格差が広がっていくのが資本主義経済の必然なのである。
ピケティはその著書「21世紀の資本」でその原因の解析を試み、利子率>経済成長率すなわち資本所得>労働所得によるものではないかと仮説を立てている。しかし、アメリカに関しては、その傾向が明らかではなく、所得自体の格差があるのではないかと解説している。(ピケティの議論をあとから概観するにはこれが便利)
また、利子率と経済成長率の関係を見る中で、格差の拡大と経済成長率の低下が期を一にしていることが観察される。
このことに関して直接ピケティが因果関係を研究してはいないが、スティグリッツは(少なくともアメリカについて)色々な考察を行っている。

スティグリッツは、富裕層が所得を増加させるプロセスを分析するにあたって、市場の恣意的形成や市場の独占が大きく作用していると述べた。政治との癒着はもちろんのこと、政治との癒着がなかったとしても、略奪的価格設定(異常な低価格を提示し、競争企業を退出させて独占体制を実現し、それによって価格を吊り上げること)を通じて、独占市場を形成することが可能であることを指摘したのである。(ゲーム理論と情報非対称性の導入により、略奪的価格設定が合理的戦略として成立し得ることが証明されている。
当然このような独占市場は、莫大な所得・富を生むと同時に、それを資金としたロビー活動(時には収賄?)を通じて、政府へのプレゼンスを高めることになるし、実際になっている。
また、これは私見だが、そもそも規模の経済性が広範に見られる現代の産業において、新規参入者は基本的に不利であり、大規模生産を行う一部の企業による寡占状態へ向かうのは、市場経済の当然の帰結であると思われる。
市場の"自由"な競争の結果、市場は独占され、財は価格の吊り上げによって過小供給されることで、達成可能な効用水準を下回る。本来なら分散され得た所得も、一部に集中して独占を維持するためにまわされるか、子孫に相続される。純粋に効用を生む能力によってではなく、独占を生む能力独占企業を相続したという先天的な条件によって利益を得る層が出現する。この層に対する累進的な課税や法人税が、生産インセンティブを低減させる影響は少なく、むしろ資金力や政治的プレゼンスの低減は、独占状態の緩和とそれによる生産水準の改善に働くだろう。

スティグリッツはさらに、こういった層があらゆる公共支出を敵視することにも着目する。
公園や教育や医療や安全が欲しいとき、彼らは政府に頼る必要はない』ことから、それらに関連する支出の必要性を認めない。そういった支出が政府からなされるとき、その対象は自分でそれらを用意できない中間層や貧困層であり、その財源は主に富裕層の税金だからである。
こういった公共活動は、民間の生産性及び生産性の成長に著しく関わる。医療や安全が保障されていないときに訓練や勉強などが捗るはずもないし、国民全体への教育の普及が十分になされなければ、それによって成立している社会も維持できない。しかし富裕層はその必要性を低く見積もり、小さな政府論を振りかざす。かといって代わりに各種インフラを整備するわけではないから、国民経済の持続的成長を低減させることになってしまう。(結果的に、富裕層が得る富も相対的に減少することになるのだが、それでも得る富が莫大であるからか、その機会損失には無頓着である)

またスティグリッツはさらに踏み込んだことを主張している。高所得者になるほど消費性向は低く、低所得者になるほど消費性向は高い。したがって、税の累進性が小さくなるほど、消費水準は低くなることが予想される。
スティグリッツの分析によれば、このような消費水準の低減は、何度もバブルを起こすことで相殺されてきた。特にサブプライムローンでは、低所得者に代わりに債務を負わせるという狂気じみた方法で経済を拡大させてきたのである。
しかしバブルの夢が解けた結果、税制度によって確立された消費の低水準は、そのまま不況の定着をもたらし、大いに経済及び経済成長に傷をつけているのだ。
この分析の示唆は強烈で、累進課税などないまっさらな市場経済は、バブルによる非持続的な好況と、達成可能な生産水準を大いに下回る不況だけを発現させるというのである。故に、強力な累進課税制度と適切なマクロ経済政策が、戦後しばらくの間資本主義の黄金期を築き上げた一方で、その破棄が近年の長期低迷に繋がったというのである。



かのように、新自由主義の概観とその批判をまとめてみた。たった一つのエントリで議論を網羅できたとは到底思えないが、そこは容赦してほしい。

しかし、上記のような議論を考慮した上で、昨今各所(日本のみならず世界中)で提唱されてきた経済政策を振り返ると、なんともいえない脱力感に襲われてしまうのである。




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