永築當果のブログ

ブログを8本も立て、“物書き”が本業にならないかと夢見ている還暦過ぎの青年。本業は薬屋稼業で、そのブログが2本、片手間に百姓をやり、そのブログが2本、論文で1本、その他アメブロなど3本。お読みいただければ幸いです。


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 獲得形質は遺伝しないと言われています。その根拠は、遺伝を司る(現在そう断定されている)生殖細胞に体細胞が獲得した形質を記憶させる方法はない、というものです。

 従って、ラマルクが唱えた「用不用説」とセットになる「獲得形質遺伝説」は否定されたままになっています。

 ところで、「獲得形質遺伝説」と深い関わりがあるものに「生物発生反復説」というものがあります。ヘッケルが発表した仮説で、「個体発生は系統発生の短縮された急速な反復である=個体発生は系統発生を繰り返す」というものです。

 1個体、例えばヒトの発生をみたとき、卵子に精子が入り込むという単細胞生物の合体から始まって、多細胞化を進め、魚のような脊椎動物になり、ブタと変わらぬ哺乳類の形に成長し、最後にヒト特有の形質ができあがって誕生します。

 このように、個体発生は、幾層にも積層した遺伝子レベルでの記憶が、同一種毎にそれぞれの段階において間違いなく共通して発現し、系統発生を繰り返しているとするのが、素直な物の見方となりましょう。

 なお、それぞれの段階における記憶は、系統発生の各段階において一定の行動様式を長く維持したことによって獲得された形質が、何らかのメカニズムで遺伝子レベルで固定されて残っていると考えるしかないでしょう。

 しかしながら、このヘッケルの説も幾つもの例外があるからとして否定されています。


 それじゃあどういう仕組みで生態変化が遺伝して種が進化するの?という設問に対する答えは、“今のところ何も分かっていません”というのが筋というものですが、正統進化論学者は、それは“生殖細胞の突然変異だ”と言い切るのです。

 つまり、気紛れな遺伝子変化が時々あり、多くは障害が生じて生存競争に勝てないから自然淘汰されるが、偶然にその環境や社会に適した個体の発生を見たとき、それが適者生存し、子孫を多く残し、やがてその個体の子孫だけで占められることになる。これが進化だ、というのです。

 

 しかし、「突然変異による進化」も実証されたものではないですから(1つ2つそれらしきものがあるようですが)単なる一つの説であって、「獲得形質遺伝説」(これにも実証されたものが少なくとも1つあります。それは後述のルイセンコ学説です。)と同列のものであり、これを間違いだと決め付けるのは、いかがなものでしょうか。

 そして、「突然変異進化説」というものを、よくよく考えてみると、“気紛れで何かが決まり、それがどの程度の期間安定して維持されるのかもまた気紛れであり、いずれ再び別の気紛れが生じて、あらぬ方向に何かが決まるかもしれず、延々とこれが繰り返されていく。”ということになります。

 これは、もっともらしい説明の形にはなっていますが、“何だか分からないが、種は進化しているのは事実だから、こうとでも説明するしかないのではないか。”と言っているだけのことであり、つまり“なんだか分からない説”であって、説として発表するのもはばかれる性質のものです。


 さらに論理を深めていくと(ここからは哲学的になりますが)、大自然を支配する真理として、進化についても何かの公理があるはずであり、その公理は他の分野の公理と共通する部分が必ずある、となります。別の言い方をすれば、他の分野には適用できない公理だけで進化の公理が成り立っているとするのは真理ではない、となります。
 つまり、大自然を支配する真理として、大公理、中公理、小公理というものがあるとすると、進化の公理は極小公理となり、その公理は小公理の枠内にあって他の極小公理と共通する公理を持つということになります。

 随分と乱暴に、十分な論理展開をせずに自然哲学(学者によって定義が異なり適切な名称でないかもしれませんが)なるものを言い切ってしまいましたが、こうした哲学的思考を踏まえないことには、とんでもなく間違った自然科学になってしまいます。

 「自然科学する者は哲学する」、これは、昔の自然科学者には当たり前のこととして取り組まれていたことです。

 それが、近代になって実験重視の自然科学となり、実験結果だけを見て思考する、という風潮に支配され、哲学しなくなりました。

 実験結果を絶対とし、実験結果を疑問視しない、としたことで、数多くの間違いが起きるようになりました。まず基本的な問題として、自然界での在り様と実験装置内での在り様が正しく一致しているかどうか、次に、測定に当たり電磁波などで対象物に変化を生じさせないか、3つ目が結果について認識論的解釈が十分になされているか、です。

 特に、多細胞生物体を切り刻んでの観察に関しては、前2つが顕著なものとなります。

 そして、こと進化に関しては非常に長い年月をかけて変化が起こるという性質のものですから、これを実験でもって実証するのは極めて困難であり、多くは哲学的考察から迫るしかないのではないでしょうか。


 さて、近年、遺伝に関して、ちゃんと哲学して説を唱えた方で、小生の知っている方が3人いらっしゃいます。

 そのお一人が西原克成氏(1940年生れ)です。

 氏の本業は口腔外科であり、顎顔面変形症(歯列不正)の臨床を重ねる中で、これは顎に加えられる外力で起こる疾患と気づき、これは何も噛み癖だけではなく、体全体の使い方の偏りや誤りで起きるものであり、生体力学的観点から見なければならないと考えられ、治療方法を打ち立てられました。そして、現代生物学には「重力」が完全に抜け落ちており、進化に関しても生体力学反応が大きく働くであろうことを直感認識され、「重力作用」というものは、何も物理学の分野だけではなく、自然科学全般にわたって切っても切れない関係にあると考えるのが氏の哲学です。
 そして、進化にも、1段あるいは2段上の公理である「重力作用」が大きく働くとして、その著「生物は重力が進化させた」(講談社)の中で、数多くの実験を通して進化の理論を展開されています。

 それを小生の論文「人類水生進化説 第3章 これが本当の進化の法則」の中で紹介し、小生の意見も附言していますので、以下に再掲します。


 進化を起こさせるのは、重力を中心とした生体力学的な行動様式をはじめとする環境因子であって、いわば「ソフトの情報系」なのです。「ハードの情報系」と呼べる遺伝子の分子進化は、形や機能を後追いして、時間の作用によってポツリポツリとランダムに変化していく存在でしかありません。

 その変化は、基本的にコピーミスです。そして、非常に長い時間を考えると、行動様式を変えたことによって獲得された形質は、確実に遺伝していくのです。

 これは、まぎれもない事実であり、獲得形質は遺伝するのです。これには、遺伝子重複などのメカニズムが考えられますが、残念ながらその詳細は不明です。

 でも、単なる突然変異の積み重ねではありません。あくまでも、1つの推測に過ぎませんが、これを「場の理論」で説明できるのではないかと考えています。

 「場の理論」とは、バトラーが発見した哺乳類の歯に関する法則です。

 例えば、犬歯の歯胚(未熟な幼歯)を前歯の位置に移植すれば前歯に成長するというように、どの歯胚をどこに移植しても生えるべき位置の歯に成長します。

 これは、血流が原因で生ずる流動電流の強弱が顎の部位ごとに違いがあるからで、遺伝子が皆同じであっても、場所によって歯の形が変わってしまうのです。

 この理論は、歯のみならず体全体の器官に適用して良いでしょう。

 すなわち、行動様式を変えることで、形や機能が変化して、体内の「場」すなわち流動電流の強弱が変わり、局所を構成する細胞の遺伝子の発現の仕方に、何らかの影響を及ぼすことでしょう。

 そして、これが、やがて遺伝子レベルで記憶されることになるのでしょう。


 ここに紹介しました西原氏の大胆な推測にしても、特定の器官における遺伝子の発現の仕方の変化が、どのようにして生殖細胞にまで記憶されるかは、説明し切れていません。

 よって、「獲得形質遺伝“説”」は、経験則としての“法則”に格上げして良いですが、そのメカニズムは、まだ闇の中にあり、容易には解き明かせない性質のものです。

 いずれにしましても、獲得形質は、非常に長い時間の経過を必要とするものの、確実に遺伝するのでして、DNAを含む染色体の中のどこかに、何らかの形で、安定した状態で記憶されているに違いなく、それを「生命記憶」と呼んで良いと、私は思うのです。

 その「生命記憶」には、原初の生命が誕生した約35億年前からの全ての基本的な事項が含まれている、と考えざるを得ません。

 なぜならば、あらゆる生物の体液は、基本的に約35億年前の原初海水の濃度と同じに保たれていますし、高度かつ複雑な進化を成し遂げた脊椎動物にあっても、その卵子と精子は、原始的な原核単細胞生物と極めて類似した構造をしているなど、原初性が数多く認められるからです。(引用ここまで)


 哲学する2人目が、「主体性の進化論」(1980年:中公新書)を著された今西錦司氏(1902-1992:京都大学教授、岐阜大学学長)です。
 氏は様々な種社会(氏の言葉で、動物の群れのこと。ただし、1つの種の全体を含めて「種社会」とも言っておられ、引用文中ではただし書きの意味)の観察を通して動物の生態を熟知し、そうしたなから哲学的思考にふけって独自の進化論を展開されています。なお、以下に引用する本書は氏が78歳のときのものです。高齢となったことにより哲学に重点を置いて主張されている進化論でして、かなり長い引用となりますが、氏独自の哲学を感じ取ってください。


…私がいままでによく使ってきた生物の「自己完結性」…とは、…かなり広い意味をもち、…それ自身を明瞭に取りだせるものなら、生物の個体であろうと、種社会であろうと、あるいはまた人工物であろうと、システムであろうと、それらはすべて自己完結性をもっている、といってよいのである。

 生物はこの自己完結性を持続さすために、生きているかぎりはたえずその身体をつくりかえるという営みを、つづけてゆかねばならない。それは直接的には、生物の個体に課せられた仕事であるけれども、そうした個体が構成単位となってつくられている種社会というものも、またそれが自己完結性をもつものである以上、個体の寿命をこえ、進化を通じて、その自己完結性を維持しなければならない。種はこれを種を構成する個体の、世代を通じたつくりかえ、すなわち進化によって果たしているのである…

(異種生物間の共生を踏まえて)…種社会というものはもともと生物全体社会のひとつの部分なのであるから、このような部分社会が、それぞれ好き勝手に変わるようなことがあっては、全体社会に破綻をきたし、生物的自然はアナーキーにおちいってしまうであろう。
 だから、全体社会の構造なり秩序を維持してゆくためには、部分社会として種社会がみだりに変わるようなことがあってはならないし、種社会を変えないで維持してゆくためには、種個体のあいだに甲乙がないようにしておいて、どの個体が死んでどの個体が生きのころうとも、つぎの代はまた親とおなじ甲乙のない個体によって、引き継がれるようになっていなければならないということ…。そしてわれわれの現にみている生物的自然というのは、そういうものである。

…もちろんこういったからといっても、私は生物が変わることを、あるいは生物の進化を否定しているのではない。種個体も種社会も、変わるべきときがきたら変わるのである。悠久な時の流れにしたがって、いつかは変わってゆくのである。
…およそ獲得形質の遺伝のないところに、進化ということがはたして考えられるだろうか。生物が、あるいは生物の種が、変わりながらその生命を32億年のあいだ、絶やすことなく持続してきたということは、獲得形質の遺伝を抜きにして、はたして考えることができるだろうか。われわれが心やすく使う系統という言葉も、この連綿としてつづく獲得形質の遺伝をはなれては、意味を持たなくなるであろう。…獲得形質の遺伝ということは…およそあらゆる進化論の前提となるべき、疑うことにできない原理であり、そういう意味ではこれを進化の公理といってもよいものかもしれない。

…進化すなわち系統発生を、個体発生にすりかえている、といわれるかもしれない。私にすれば、これはすりかえでもなんでもない。ごまかそうという気などすこしもないのである。

…系統発生と個体発生とは、別なものであるということぐらいは、十分に承知しているのである。それにもかかわらず、系統発生と個体発生とのあいだには、みごとなアナロジーがなりたつということを見抜いたのである。どうして見抜いたかといったら、理詰めの結果見抜いたのではなくて、直感的に見抜いたのである。直感だから間違っているかもしれない。もちろん間違っていることもあるだろう。しかし、理詰めの結果にだって間違いが生ずる余地がないとはいえない。直感だって10のうち9まで当たるようだったら、一つの間違いをおそれてこれを用いないというのは、まことにもったいない話である。私は直感の導いてくれたアナロジーのほうが、下手な理屈よりもはるかに物事の真相をとらえている、とおもう。

…進化はあまりにも悠大ななにものかなのである。変わるべくして変わるというとき、われわれは進化をもはやメカニズムの立場でみているのではなく、進化を一つのコースとしてみているのであろう。そして、メカニズムを対象とする学問は、どこまでも現在本位の学問であり、コースを対象とする学問は、どちらかというと過去本位の、歴史を取り扱う学問である…。

 この点をもうすこし拡大して考えると、こういうことになるのではないか。生物であると無生物であるとを問わず、また自然物であると人工物であるとを問わず、すべてのものが一定の場を占めているということは、そのこと自身が空間の構造ということに関連している。あるいは構造をとおして、空間を形成しているといってもよい。もすこし強くいうなら、この構造をくずさぬように守ることが、すべてのものに課せられているのである。物理学でいう慣性が、じつはそれなのである。生物には慣性という言葉は適用されないが、生物に変わらないという一面があるのは、その現われである。しかし、われわれの世界には空間のほかに、時間というものがあり、この時間にせまられて、すべてのものは現状維持ができなくなる。そこで生物だったら、細胞をとりかえたり、個体をとりかえたりするのだが、そうしておっても現状維持がむずかしいときには、徐々に、あるいは急速に、身体を変えてゆかねばならなくなる。ところでここのところを生物の場合には、個々の個体がてんでんばらばらに変わるのでなくて、すべての個体が歩調をそろえて、同じように変わってゆく。何度もいうようだが、ここが進化を考えるうえで、きわめてたいせつなところなのである。

…個々の個体は種という全体を構成している部分である。すべての個体が入れかわっても、種は変わらない。種は変わらないままで変わってゆく。私の身体を構成しているすべての細胞が入れかわっても、私は変わらない。私は私である。それにもかかわらず私自身も、年とともに変わってゆく。

…この私…この個体にみられる生長という現象は、もともと私の身体にそなわった自発的現象であり、これをはたからみたら、私という主体のあらわす一種の自己運動である。

 すると進化において、種が変わらないままで変わってゆくということも、…もともとその種にそなわった一つの自己運動である、というように見なせないものだろうか。時間のスケールにちがいのあることはもとよりだが、生長も進化もこれを時間軸に沿った一つのコースとみるかぎり、いずれも主体のあらわした自己運動の軌跡である、と見なしてよいのではなかろうか。

 変わるべくして変わるもの、あるいはここにいう自己運動によって変わるものは、なにも生物の個体や、その個体を構成要素として成りたった生物の種のみではあるまい。生物個体の体内にひそんで、生命現象を維持してゆくための重要な働きを演じている、さまざまな化学物質もまた、個体と矛盾するところなく、あるいは個体の変化と歩調をあわせて、変わってきたことでもあろう。…

…私は、私というものが変わらないままで、生長とともに変わってゆくように、種というものも変わらないままで、進化とともに変わってゆくといった。変わらないというのは、言葉をかえたら、自己同一性(アイデンティティ)を保っているということであるから、私も種も、自己同一性を維持しながら変わってゆく、ということだろう。…変わるべくして変わるということは、この空間的・時間的な世界に存在するあらゆるものについて、いえることではないか。…
(引用ここまで)


 いかがでしたでしょうか。ついでながら、少々横道にそれますが、もう一つ本書のあとがきから引用しておきます。

…私の進化論がダーウィンの進化論に勝ったことにもならないし、けっきょく勝負がつかないということがわかった…。

 ところが西欧のひとたちは、そうはおもわないらしい。その中のどれか一つが正しくて、他は間違っている、とおもうのである。進化論なら、いくらいろいろな進化論が出されても、その中でダーウィンの進化論だけが正しくて、他の進化論はみな間違っている、とおもうのである。ダーウィンの進化論には事実の裏づけがないといくらいっても、そんなことには耳をかさないで、ダーウィンの進化論だけが正しくて、他の進化論はみな間違っている、と信じ込んでいるのである。こうなったらもはや科学ではない。科学の仮面をかぶった信仰に他ならない。信仰といってもこれは、かつては唯一神による生物の創造を信じていた、キリスト教的一神論的な信仰の変身であるにすぎない。

(引用ここまで)

 本書においては、全体にわたり柔らかい口調で語られていますが、ここだけはビシッと強い口調で批判しておられます。これは進化論にかぎらず生物学や医学一般そして宇宙論など西欧近代科学の本質的な特徴でしょう。


 最後に、もうひとかた登場願います。哲学する3人目、生物学に関して実に特異な説を幾つも発表されている千島喜久男氏(1899-1978:中等学校教師、九州帝国大学助手、岐阜大学教授)です。

 前述の今西錦司氏より学年は2つ上で、岐阜大学ではすれ違いですが、2度会っておられるものの、相互に影響しあったことはなさそうです。

 氏は、いわゆる千島学説で有名ですが、有名だからこそ無視されている存在です。というのは、現代生物学・医学を根底から覆す学説、いや公理と言ってよいほどのものを発表なさったものですから、学界あげて潰しにかかり、氏をペテン師呼ばわりするという暴挙に出て、一連の学説が全く日の目を見ない状態に置かされているのです。

 終戦前後から相次いで、赤血球分化説、体細胞・赤血球可逆的分化説、毛細血管開放説、腸造血説、バクテリア自然発生説などを発表されたものの、関係学界からは全部無視されています。
 氏は、科学研究の方法論としての心身一如の生命弁証法を唱えておられます。生命弁証法とは何か、これを一言で言えば、「生命は時々刻々として変化して止まない。その変化の働きは生命や自然がその本質に歪みをもっているからである。」とするもので、これは氏の哲学です。

 忰山紀一著「千島学説入門」(地湧社)から、その哲学の一端を以下に引用して紹介しましょう。


 千島教授の『自伝』によりますと、教授が生命弁証法の発想を得たのは、24歳の時で1922年のこととあります。…偶然、次のようなインスピレーションが浮かんだのです。

 「人間は生まれ、成長し、そして老化すると再び幼児に戻る傾向がある。そしてこれは人間だけではない。生物やさらに広く自然界にもこのような繰り返しと、一種の矛盾と回帰が多い。これは何か大自然の大きな法則のあらわれかも知れない」

 教授の脳裏に浮かんだこの考えこそ、“生命弁証法”の着想の動機だったのです。

…やはりその頃、…教授は思ったのです。

 「極大の世界である太陽系と、極微の世界である原子とがおたがいによく似た構造をもっているとしたら、その中間にある人間や生物も、また、そうした対立と循環的繰り返しをもつに違いない。」 

 やはりその頃、千島教授はニーチェの…「われわれの現在の状況は過去においても無数回繰り返してきたし、未来にも無数回繰り返すものだ」…の言葉にも感動を受けたのです。

…その後、仏教に“輪廻思想”のあることを知った教授は、“すべては循環的に繰り返すもの”だと、考え、そして自分のテーマを“生命の循環説”とひそかに仮称していたのでした。

 ところが、千島教授がこの問題を調べていくと、生命現象は…幾分ちがったものに見えてきたのです。

 すなわち、同一の軌道を繰り返す循環的な円運動ではなく、変化と発展性のある螺旋運動であることが解ってきたのです。しかも、螺旋の根源には左右不相称の歪みと、波動や周期性の組み合わせがあることも、だんだん解って来たのです。そこで千島教綬は“生命の循環説”を改めて“生命現象の波動・螺旋性”というテーマにしました。

…これを理論と事実に基づいて体系づけるには、単に生物学の枠内ではいけないと考えました。すなわち、このテーマでは、形態、現象、運動などだけではなく、思想や社会、さらに大自然という宇宙とのつながりで考えねばならないと思ったのです。そこで教授は、物理、化学、天文、地学をはじめとする自然科学を学び、哲学、宗教、芸術など精神科学の資料を集め、広く検討をかさねたのでした。

 若き日にこのテーマを得た千島教授は、時間と空間を永い眼で観る習慣が自然と養われたのでしょう。それは、その後の血液研究や現代生物学、医学に新しい学説を構成する時に、大きく役立つことになります。

…(千島教授が晩年に発せられた言葉)「自然の法則は人間の便宜的な分析を越えたところにあります。自然界には飛躍はけっしてありません。突然変異などというものは、実際にはあり得ずそのメカニズムが解明できないからそう言っているだけです。自然界に突然変異はありません。自然界のすべては連続しています。形式論理で峻別するほど単純なものではないのです。それを無理に、あるいは意図的に区別することから、間違った考え方や科学が生まれてくるのです」

…形式論理に対立する科学的方法論が弁証法です。形式論理と違って弁証法は変わるという“変化”を中心にしている哲学です。

 “すべての事象は時間の経過と場所の変化によって絶えず流転する”

 千島教授は生命弁証法でそのように言っています。そして、地球上のどのようなものでも、永久に変わらないものは何もないと言っています。すなわち万物流転です。(引用ここまで)


 突然変異説の否定が出てきたところで、これより千島教授の進化論について紹介しましょう。(以下、再び引用)


…千島教授は“生殖細胞の血球由来説”という自説の獲得性遺伝の肯定という立場から、ルイセンコを支持する論文を発表し、…

 ルイセンコは“栄養雑種説”“発育段階説”“隔離雑種説”の3つの方法で、植物個体の本性は不安定な状態となり変異を起こしやすくなり、その変異した種は子孫に遺伝すると主張したのです。このように、ルイセンコの学説は、環境の重要性と遺伝の可変性で構成されています。

…(大半の学者は)ルイセンコ学説が弁証法をその方法論としていることを批判しているが、…千島教授にすれば、遺伝や進化のように時空の広がりの大きい問題を理解するには、樹を見て森を見ない形式論理的な判断より弁証法の方が、それがたとえ唯物的弁証法であろうとも、自然を見る眼としては優れている…

…生物学や遺伝学はその国の社会体制と深く結びついています。政治や思想を超越して真実を語るのが科学、生物学の任務でなければならないはずです。だが、一部の特権階級、支配階級は現状維持を望み、そうした保守派に迎合する遺伝学者は、必然的にそれに好都合な遺伝学理論を組みたてます。その代表がメンデル・モルガンの正統遺伝学派です。

 “遺伝的性質は環境の影響で変わるものではない。親から受けた遺伝質は子や孫に至るまで不変のまま伝わる。すなわち、生まれつきが大切である。生まれてから努力しても、もって生まれた遺伝的性質は変わらないものだ”メンデル・モルガンの遺伝学は、そう言っています。

 言いかえれば、“カエルの子はカエル”…という保守的な遺伝学…です。

 それに対して、ルイセンコ学説や千島学説は、“氏より育ち”…というように、環境によって人間や生物の形や性質は次第に変化し、遺伝性は改善もできるし、自然の法則を無視すれば逆に改悪にもなるということをいっています。

 遺伝学は一般に明るい希望を与え、努力精進の意欲を起こさせるものでなければなりません。しかし、メンデル・モルガン遺伝学は支配者たちの保身のためには役立つだろうが、大多数の庶民にとっては、…絶望の遺伝学、宿命的遺伝学とならざるを得ません。

 しかし、古来から聖賢、偉人、天才とうたわれた人々は、むしろ、名もない市井や田舎の普通の親を持った人が多くいます。…その生まれつきの遺伝性はあったにしても、生まれてからの環境によってその人間性を育て上げられて、偉大な仕事をなし得た人々が多いのです。これらは、環境と努力が生まれつきの素質と共鳴し合った結果です。遺伝と環境、生殖細胞と体細胞とを無関係だと峻別する現代遺伝学は、理論と実際から再検討する必要がある…。

 “血”という文字は、…血液を意味すると同時に、“血統”…などといって、“血”は遺伝と同義語のようになっています。(これは)…世界共通的です。

 “血”という文字に…両方の意味をもたせたことは、古代人の優れた直感によって、…洞察したからでしょう。これは現代の生物学者が、科学的と称した考え方から定義した血液の概念とは、本質的に異なっています。

 ところが、千島教授は…新事実を発見しました。

 “人間や哺乳動物の赤血球は無核である。その赤血球のなかに核を新生し白血球に移行する。その白血球が多数集まり溶け合って、生殖細胞に分化する。人間の場合、妊娠1カ月前に生殖細胞やその核が出来る”

 これはどういうことかといいますと、古代人の直感が正しかったことを証明しています。そして、いま一世を風靡しているワイズマン流の生殖質連続説は、事実上否定されなければなりません。

…千島教授は…血球から生殖細胞が新生される事実を、顕微鏡写真に撮りました。

 赤血球は体細胞の一種です。体細胞と生殖細胞は無縁ではなく、連続していたわけですが、この千島説を、現代生物学者や遺伝学者は承認しませんでした。現代の遺伝学の権威者は、メンデル・モルガニズムの一辺倒ですから、その根底を崩し遺伝学の第1ページから書き変える新説を、容易なことでは認めることはできません。千島説に対して否定する研究(追試)をすればよさそうなものですが、メンデル以来百年という伝統に依存し、新説に対して黙殺という態度をとり続けて現在に及んでいます。

 “生殖細胞の起源”の問題は、遺伝学の根本であり出発点であるはずです。…

 生物はその特性として、環境に適応する性質をもっており、その形質は一代限りではなく、子孫に影響するとする千島の遺伝学は、現代進化論の考え方に対しても、波紋をよびます。

 進化の根本要因が、生存競争でもなく、突然変異でもないとすれば、それは何でしょうか。千島教授は、それは相互扶助だと言ったのです。生物学の述語を使えば、2種以上の生物がおたがいに相手方に利益を与え、相手からも利益を得て共に生きること、すなわち共生こそ、進化の根本要因だと述べました。

…千島教授が、微生物の世界が“共生”によって進化している事実を発見し…(それはどういうものかというと)…有機物分子のAFD現象によってバクテリアの発生、バクテリアのAFD現象による原生動物への進化、さらにその原生動物のAFD現象によって多細胞生物への進化、これはまさしく共生が要因になっています。なぜなら、前述したように、AFD現象とは、要素が集まり、それが溶け合ってそれが分化発展するという、過程の述語でした。…

(引用ここまで)

 

 進化論自体そのものは非常に幅広い分野からなり、その全体について総論的に論じられているのは今西氏ですが、千島教授の場合は生物の誕生から多細胞化の段階を中心に論じておられ、逆に西原氏は大きく進化した脊椎動物を中心に論じておられます。これは進化を促す要因が一つではなくて幾つもあって、それは原初、先端という段階の違いでそれぞれに働く要因が異なったり、植物と動物、動物でも昆虫と脊椎動物という大きく離れた種の違いで働く要因がそれぞれ異なったり比重に軽重が生じたりすることによるのではないでしょうか。

 

 さて、本稿でテーマとしたのは、「獲得形質はなぜ遺伝するのか」です。ここまで、正統進化論学者が獲得形質遺伝説を否定するのに対して、少数派ながらここで紹介した異分野3名の方がそれぞれの立場から強く支持されておられ、素人ではありますが小生もそうです。

 しかし、獲得形質が遺伝するメカニズムとなると、これは容易には解き明かすことはできず、永遠に判明しないかもしれない性質のものではないでしょうか。

 遺伝は遺伝子つまりDNAで決まると言われていますが、DNAはタンパク質の設計図に過ぎず、獲得した形質の遺伝因子はDNA以外にあると言わざるを得ません。

 また、西原氏が、バトラーが発見した哺乳類の歯に関する法則である「場の理論」が他の器官にも働くのではないかと推測されておられますが、これは「成るべくして成る」ということであって、そうなる要因は流動電流の強弱が影響すると考えられるも、そのメカニズムは全く不明です。

 さらに、千島教授の「生殖細胞の組成の元は赤血球である」「体細胞と赤血球は可逆的に分化する」との学説からしても、体細胞が獲得した形質の情報が赤血球に伝えられ、それが生殖細胞に伝えられる、ということが言えるだけのことで、そのメカニズムは全く不明です。

 考えてみるに、遺伝の一部は遺伝子によらず「成るべくして成る」ということもありましょうが、その多くは遺伝情報として生殖細胞に入っていると考えるしかなく、その情報量というものは膨大な量になり、その蓄積がどのようにして行われているのか、それがどのようにして発現するのか、に関しては、人間はまだ一切の知見を得ていないのは確かなことです。なんせ、1人の人間が今まで生きてきて経験したことの記憶がどのような形で脳に蓄積しているのかさえ、ほとんど分かってい状況にあるのですから。脳の記憶は脳の神経細胞に手がかりがありますが、生殖細胞には記憶の手がかりは何も見つかっていないのです。


 こうしたことから、「獲得形質はなぜ遺伝するのか」というテーマについては、残念ながら半永久的におあずけにするしかないのです。

 でも、「獲得形質は遺伝する」としか言いようがない。このことを素直に受け入れればいいだけのことです。 

 進化に関して哲学的に、西原氏は「成るべくして成る」、今西氏は「変わるべくして変わる」、千島氏は「変わらないものは何もなく、みな連続的に変化する」と言っておられ、こうした哲学的判断を踏まえると、単に「獲得形質は遺伝する」というよりは「獲得形質は遺伝するしかない」と言ったほうがより適切な表現となります。

 哲学することの重要性は、こうしたところにあるのではないでしょうか。


 本稿のテーマにはあっさり白旗を揚げ、進化に関しては哲学論で終始したがために、“めちゃ長文のくだらない戯言に付き合わせられて損した”と、お思いの方が多いかと存じますが、哲学することの重要性を少しでも知っていただきたく、“だましの表題”としたことをお許しください。

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