永築當果のブログ

ブログを8本も立て、“物書き”が本業にならないかと夢見ている還暦過ぎの青年。本業は薬屋稼業で、そのブログが2本、片手間に百姓をやり、そのブログが2本、論文で1本、その他アメブロなど3本。お読みいただければ幸いです。


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 人間は、はたして本当に社会的動物なのだろうか。

 “そのとおりだ”と断定されていて、当たり前のように言われている。
 例えば次のようなことがよく言われる。

 「人間は一人では生きられないものである。人は社会と離れ、社会なしで生きられるものではない。だから人間は社会的動物である。」


 ところで、「人間は社会的動物」という言葉の本元はどこにあるのだろう。
 Wikipediaによると、次のように書かれている。

 アリストテレスは『国家』において、人間は「zoon politikon (ポリス的な動物)である」と述べた。

 人間というのは、自己の自然本性の完成をめざして努力しつつ、ポリス的共同体(つまり《善く生きること》を目指す人同士の共同体)をつくることで完成に至る、という(他の動物には見られない)独特の自然本性を有する動物である、ということを述べた。

 アリストテレスは、人間が単に社会を形成している、とか、社会生活を営む一個の社会的存在である、などと言ったのではなかった。

 だが、原典を読み前後の表現を自分で確認しようともしない人々の間に誤解が生じた。生物学者や生物学を学ぶ学生などのなかには、アリストテレスが「人間は社会的動物だ」と言ったと信じていて、しかも独特の解釈をする人が多い。(引用ここまで)


 この解説からすると、「人間は社会的動物である」という表現は、どうやら古代ギリシャの哲学者アリストテレスが言った「人間はポリス的な動物である」の中の「ポリス」を間違って「社会」という言葉の概念と同じと解釈し、意味は全く違うのだけれど一人歩きしてしまったようである。


 アリストテレスの「ポリス的共同体」は、古代ギリシャ世界の奴隷制の上に立った《善く生きること》であるからして、出発点から自己矛盾を起こしていて、いただけないものであるし、加えて人間様は他の生き物より1段も2段も上等な存在だというおごりがあるから、何とも救いがたい代物である。
 それはそれとして、単なる「社会的動物」、人間と他の動物の差別をなくして言うと「群社会」ということになるのであるが、はたして「人間は社会的動物である」なり「人間は群社会に身を置くことではじめて生きていける」と言えるのだろうか。


 少々横道に入るが、最近、興味ある本に出くわした。篠田桃紅(美術家)著「103歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い」である。その一部を引用しよう。

 私は生涯、一人身で家庭を持ちませんでした。どこの美術家団体にも所属しませんでしたので、比較的、自由に仕事をしてきましたが、歳をとるにつれ、自由の範囲は無限に広がったように思います。…なにかへの責任や義理はなく、ただ気楽に生きている。…自由という熟語は、自らに由(よ)ると書きますが、私は自らに由って生きていると実感しています。…孤独で寂しいという思いはありません。むしろ、気楽で平和です。

 私は、24歳で実家を出てから、ずっと一人で暮らしていますが、孤独をあたりまえだと思っています。…誰かが一緒にいないと寂しくてたまらない、と思ったこともありません。…そもそも、人には、介入するものではない、と思っています。過度な期待を相手に抱けば、その人の負担になるかもしれません。ゆきすぎた愛情を注げば、その人の迷惑にしかなりません。…しかし、世の中には、そうしたことに気づかず、振る舞っている人がいます。…まわりが困っています。

 自然物には莫大な種類があります。人は動物の一種、うさぎや亀などと同じ一種。自然の産物として生まれただけ、そう思えば気楽なものです。

 書に専念しているうちに、私はどんどん深みにはまり、次第に、文字は、こう書かねばならない、という決まりごとに、窮屈さを覚えるようになりました。たとえば、川という字には、タテ3本の線を引くという決まりごとがあります。しかし、私は、川を3本ではなく、無数の線で表したくなったのです。あるいは長い1本の線で、川を表したい。幸いにも、私の作品は、ニューヨークで評価されて、世界にも少々広がりました。ですから、私の場合は、こうなりたい、と目標を掲げて、それに向かって精進する、という生き方ではありませんでした。自由を求める私の心が、私の道をつくりました。すべては私の心が求めて、今の私がいます。(引用ここまで)


 この篠田嫗(おうな)の生き様を鑑みるに、ますます「人間は社会的動物である」なり「人間は群社会をつくる」という常識めいた当たり前のことが当たり前には思えなくなってきた。

 動物生態学や文化人類学を少々かじり、生活環境の変化や時代(と言っても百万年単位)が進むことによって、動物や人間が、はたして群社会をつくるのか否か、群を構成するとなった場合にはどんな形態をとるのか、それは変わりうるものか否か、こうしたことに調べを進めていくと、非常に興味深いものに出くわす。

 しかし、不変としか思えない形態の存在も動物の種によってはありそうだ。例えば犬と猫である。犬は群社会を構成し、はっきりとした序列を作り、群社会を安定化させている。猫はネコ科の通例に従い、単独生活である。彼らは環境がどのように変わろうとも長い長い時代にわたってほぼ同一の形態を取ってきたに違いないようだ。どうやら彼らは何千万年という世代の繰り返しの中で、固有の生活形態が遺伝的精神体質として獲得されてきているようにさえ思われる。

 では、ヒトが属する霊長類についてはどうだろう。霊長類もその歴史は長い。恐竜が絶滅した6千数百万年前まで遡ることができる。哺乳類の誕生とほぼ時を同じくする。しかし、霊長類は他の哺乳類と違って、地上生活者ではなく、唯一例外的な樹上生活者としてスタートを切った。地上で他の哺乳類と棲み分けるだけの力がなく、他の誰もいない熱帯雨林の樹上に逃げ込んで、敗残兵生活を始めたのである。

 今でも生き残っている夜行性の原猿類が霊長類のスタートである。彼らは昆虫食で、単独生活者である。昆虫は熱帯雨林の樹木にほぼ均一にいるから、縄張りを作らない。あまり動き回る必要もなく、1本の木で飽きがきたら気まぐれ的に隣の木にでも移動し、毎日昆虫を食べるのが仕事だ。メスが発情してフェロモンを強烈に発すれば、オスがその匂いに引き寄せられて一時的にペアを作り、妊娠すればフェロモンを発しなくなるから、オスはメスに興味を失い、餌が効率よく捕れる単独生活に戻る。メスはその後出産し、母子2人での生活をし、子が一人前になれば、子は母親から離れ、単独生活を始める。これを延々と繰り返して今日に至るのが夜行性の原猿類であり、彼らは決して群を作らない。猫と一緒で、固有の生活形態が遺伝的精神体質として獲得されているに違いなかろう。

 現存する原猿類の中に昼行性のものがいる。彼らは1雄1雌のペアを構成し、他のペアとは没交渉である。縄張りを持ち、他人が近付けば縄張り侵犯とみなし、激しく追い立てて縄張りを守る。なぜ、彼らは単独生活ではなく、ペアを構成するのか。それは、彼らの食性が昆虫食から昆虫&果物食となり、果物中心へと変化したからである。熱帯雨林の中で果樹は少ない。所々に飛び飛びに生えているのが一般的である。1本の果樹で皆仲よくお食事しましょう、とはまいらない。たいていは生息密度が上限いっぱいいっぱいのところに至っており、食い物の争いがどうしても起きてしまう。これは俺の木だ、これは私の木だ、となってしまう。よって、縄張りというものが自然とできる。その縄張りを維持したり、奪い取ったりするのに、1人では不可能だが、2人いればそれが可能となる。こうして一時的にペアを作った2人は両性とも妥協して一緒に生涯ともに暮らすようになる。子育てにオスが協力することはほとんどないが、歴史時代以降の人間と同様の婚姻形態である永久婚というものが早々に発生したのである。

 その後、霊長類の多くは、葉食へと食性を変化させていった。初期は枝先の芽や花であったろう。そして、昼行性になった。それと同時に単独生活なりペアから複雄複雌群を形成するようになった。つまり群社会を作ったのである。これは、彼らはまだ体が小さく、枝の先端に偏在する芽や花を食べに行けば上空から猛禽類に捕獲される危険性が高いが、大勢で食べに行けば誰かが危険を察知して叫び声を上げるから、すぐに逃げ戻ることができるからである。そして、彼らは縄張りを持たない。これは、熱帯雨林の樹木は同一種が群生することなく飛び飛びに生えていて樹木間競争が激しく、どの種もそれぞれの種に特有の毒を持っているから、1本の木にとどまって同じ芽や花そして葉っぱを大量に食べることは同一の毒に対する肝臓の解毒能力からしてできない。ちょちょっとつまみ食いして他の木に移動せねばならないのである。こうしたことから、これは俺たちの木だ、という主張は生じようがなく、縄張りを持つことはない。ただし、群同士は没交渉となる傾向が高い。これは、オス同士のメスをめぐる張り合いがあるからである。

 現存する霊長類の多くは完全葉食の樹上生活者であり、複雄複雌群を形成し、ほとんどが母系である。群で生まれ育ったメスは一生群に残り、一人立ちしたオスは群を出て行き、他の群に入り込む。半地上生活者となったニホンザルの仲間たちは昆虫&葉食者であるが、群の形態は全く同じだ。

 草原で完全地上生活者となったヒヒ類は様相を大きく変える。サバンナヒヒはヒヒが誕生した原初の形態のままであると思われるのだが、繁殖期だけペアを形成し、大集団で暮らしている。マントヒヒやゲラダヒヒはこじんまりとした1雄複雌のユニットが幾つも集まったバンドを形成する。二重構造の社会を形成するのだから人間社会に随分と近い。加えて複数のバンドが集まった大集団で暮らしているから、外見的には家族・氏族・部族という昔の人間社会そのものだ。なおユニット形成はマントヒヒは父系、ゲラダヒヒは母系である。ヒヒ社会のこの特殊性は、樹木がほとんど生えていない草原に住んでいることが原因していよう。猛獣に襲われる危険が高いことと、食糧は小さな草の芽や種しかないからオスも丸一日食べ続けねばならず、オスにはメスを追い求める時間的余裕がほとんどないこと、この2つがヒヒ社会の特殊性を生んでいよう。

 さて、人間の祖先はというと、現存する類人猿の祖先と元を同じくする。一般的な猿には尻尾がある。英語でモンキーという。それに対して尻尾のない猿がおり、英語でエイプである。霊長類を2種類にちゃんと区分する英語は何とも自然科学的で、エイプが類人猿である。霊長類はそのスタートが樹上生活者であったから、枝の上を歩き回るには尻尾でバランスを取らねばならず、尻尾が発達したのである。一方、類人猿は食性が果物食に特化していった。1本の木に陣取っていて動き回ることは少ない。手を大きく伸ばして果物をもぎ取ればいい。そうしたことから手が長くなり、尻尾は退化していったものと思われる。現存する類人猿(エイプ)は、小型種のテナガザル、大型種のオランウータン、ゴリラ、チンパンジー(他に類縁のボノボが別種として)そしてヒトである。

 類人猿は種ごとに皆、群形態が異なるから興味深い。
 テナガザルは昼行性原猿類と同様に樹上生活者であり、ペア(永久婚)となって縄張りを持ち、他のペアとは没交渉である。食性が果物食の傾向にあるからこうなるのであろう。彼らは東南アジアに住み、現在は果樹が少ないから木の芽や花が主食となっている。
 同じく東南アジアに住むオランウータンは非常に生息密度が薄いから、縄張りの存在ははっきりしない。今現在は樹上生活者で単独生活しているが、母系の複雄複雌群を緩く形作っているように見えるものの、オス・メスあるいはメス同士が一緒に長く居ることは非常にまれである。なお、オス・メスの体格差は倍ほどの開きがあり、これはゴリラと類似していて、以前は一雄複雌群を形成していたものと推測される。食性は果物食の傾向にあるが、彼らの生息域には果物が不足しており、樹皮などが主食となっている。

 アフリカの熱帯に住むゴリラは地上生活者で、父系の一雄複雌群を形成し、縄張りを持たないが、他の群とは没交渉である。オスは晩婚であり、長く単独生活をしたのち風格が出てきたら、メスが1頭また1頭と寄ってきて、皆が一雄複雌群を形成することができる。なお、メスは、一旦決めたオスの元に一生いる者が多いが、浮気して別のオスの元に走る者もおり、また、オスが年老いて衰弱しだせば、元気なオスの元へ順次移っていく。食性は果物食の傾向にあるが、果物が手に入らなければ草を食べる。

 同じくアフリカの熱帯に住むチンパンジーとボノボ(ボノボは湿地帯が多いコンゴ盆地だけに生息)は半地上生活者で、父系の複雄複雌群を形成し、近隣の若メスが順次群に入ってくる。メスの群れ渡りは基本的にない。群は縄張りを持ち、他の群とはほとんど没交渉である。オスは生まれ育った群に残るから、兄弟、従兄弟といった血縁関係にあり、紐帯はしっかりしているが、それは他の群に対峙したときのことであり、日頃はボスをめぐる序列争いに神経を使っている。ボス争いに負けて群から追い出されるオスが時折いるが、群から離れて一人オスとなると、隣の群のオスたちに縄張り侵犯と見なされ、殺されてしまうようで、単独生活は不可能だ。この点が父系の特殊性であり、母系のニホンザルのようにはぐれオスになって隠棲することはできない。チンパンジーとボノボは類人猿の中で、最も果物に偏食している。


 ここまで霊長類の社会形態をざっと紹介した。
 さて、ヒトは、霊長類の誕生以来、どのように社会形態を変えてきたのであろうか。
 個体進化については、夜行性原猿類→昼行性原猿類→小型類人猿→チンパンジーと祖先を共通にする大型類人猿→ヒトということになろう。

 すると、社会形態は、単独生活者→ペア(永久婚)→父系複雄複雌群→「ヒト社会」という変遷をたどってきたものと推察される。

 なお、ヒトは、過去に一雄複雌群を形成してはいない。なぜならば、一雄複雌群を形成している霊長類は皆、オスはメスの倍ほどの体型になっているからである。また、チンパンジーとの共通の祖先から分かれた後、百万年単位の長い期間にわたりペア(永久婚)を続けたとは考えられない。それは、ペアを形成する霊長類はオス・メス同型であるからだ。


 ここまでは霊長類の発生から時の流れに沿ってみてきたが、今度はヒトの社会形態を現代から順に時代を遡ってみてみよう。古今東西の文化人類学者の調べから、次のように類推されよう。

 現代は、父系ペア(永久婚)である。なお、将来的には男女平等のペアとなり、永久婚ではなく、期間限定の配偶婚となりそうな雲行きで、父系ペア(永久婚)は人類の歴史において、たったの2、3千年で幕を閉じることであろう。

 婚姻形態の変遷は、大陸と日本列島とでは大きなタイムラグがある。これは大陸においては、気候・気象の急変による長期的大規模な飢饉の発生に伴う民族移動や相互侵略という戦乱(戦士だけでなく庶民も全部巻き込んでの略奪と殺戮)が古くから度々繰り返されたのに対し、日本列島においては、そうした経験は長らくなかったことによる。

 よって、らしい戦乱がほとんどなく、古い婚姻形態を長く残し得た日本列島そして太平洋の島々などが大いに参考となる。

 日本列島においては、現在は父系ペア(永久婚)となっているが、これが完全に定着したのは、戦国時代になってからの武士階級のみである。戦国の世にあっては、戦士である男の地位が女の地位を大きく上回ることになるのは必然であるからだ。その前は、母系ペア(婿入り婚)が主流であった。さらに遡ると、氏族社会では母系複雄複雌群の様相を示しているが、双系複雄複雌群の色合いを強く持っていたようである。

 なお、双系複雄複雌群(氏族社会)にあっては、男女ともに生まれ育った群(氏族)に留まるのであり、男は近隣へ連れだって夜這いをかけるのである。これは、日本全国、農村地帯は明治時代までどこでもあったことであり、その後順次減っていったものの戦後しばらくまで続いた地方もある。そして、女は通常日替りで複数の男を受け入れた。よって、血のつながった父親が特定されることはないのが普通である。

 ここまで、随分と断定的な物言いをしてきたが、地域により、また、隣接集落であっても婚姻形態が異なっていることもあり、社会形態は複雑な様相を示しているが、大ざっぱに捉えると、以上のようになると考えられる。


 ここで、霊長類の誕生から現代までをつなげてみよう。

   単独生活者[他の個体とは没交渉]

 →ペア(永久婚)[他のペアとは没交渉]

 →父系複雄複雌群[他の群とは没交渉]

 → … (この間の変異形は多分なかったであろう。)

 →双系複雄複雌群[他の群とは男が交渉]

 →母系複雄複雌群[他の氏族とは男が頻繁に交渉]

   <バンドを形成し、二重構造社会(氏族・部族)>

 →母系ペア(婿入婚)[他の氏族とは男が頻繁に交渉]

   <三重構造社会化(氏族・部族・民族)>

 →父系ペア(永久婚)[他の氏族・部族とは男が頻繁に交渉]

   <四重構造社会化(氏族・部族・民族・他民族)>

 →現代:父系ペア(永久婚)が崩壊傾向

   [広域的に男女が頻繁に独自交渉]

   <氏族・部族が崩壊し、複雑な複層構造>


 さて、この中で「人間は群社会に身を置くことではじめて生きていける」という状態にあったのは、「父系複雄複雌群」から「父系ペア(永久婚)<氏族社会>」までであろう。つまり、この間が真の「社会的動物」なり「群社会」であったのである。

 その前の「ペア(永久婚)」なり「単独生活者」時代は、明らかに「社会的動物」ではない。そして、現代においては、とっくに氏族社会が崩壊し、今や父系ペア(永久婚)も崩れようとしており、男女共に自らの行動を単独で決せねばならない時代に入ったのであり、自らの意思で自由に他者との交渉の濃淡を決め得るのであり、逆に、他者から濃密な交渉を求められてもそれを拒否することもできるのである。

 こうして、現代は、少なくとも精神面では「単独生活者」たることを余儀なくされ、物質面においても何らかの形で金銭を得れば、これは敵対的交渉で得られるのであり、「単独生活者」として十分に暮らしていける。

 よって、自分の生活に「干渉しないでくれ」という思いを強く持つ者が多くなってきた。

 ただし、議論として、「敵対的交渉」も「交渉」であって社会的であるから「社会的動物」から抜け出せないという意見もあろうが、初期霊長類は「没交渉」ではあるものの個体間の接触が生ずれば「敵対的交渉」となるのが常であり、「敵対的交渉」は「単独生活者」たる生き方を決して崩すものではないと捉えていいのではなかろうか。


 本稿は随分と長くなってしまったから、これより結論を急ごう。

 ヒトの祖先は、その初期の数千万年にわたって「単独生活者」なり「ペア(永久婚)」という「社会的動物」ではない生き方をしてきた後に、現在に至る数百万年ないし高々1千万年(大型類人猿の化石の出土)という短い期間しか「群社会」なり「社会的動物」としての生き方をしてこなかったという、この事実を鑑みるに、ヒトは本質的には「単独生活者」志向が強いのではなかろうか。

 さきに犬と猫について、「彼らは何千万年という世代の繰り返しの中で、固有の生活形態が遺伝的精神体質として獲得されてきているようにさえ思われる。」と書いたが、ヒトも初期の数千万年にわたって「群社会」を経験していなかったがために、猫社会と同様な精神志向にあると思えてならない。

 加えて、「群社会」を形成している大型類人猿の社会を覗いてみると、犬とは全く違って、とてもじゃないが「群社会」に馴染んでいるとは思えないのである。

 オランウータンは今や「単独生活者」になってしまっているし、ゴリラのオスは長く「単独生活者」として暮らすのであり、メスはというと、ボノボは若干例外的だが、ゴリラとチンパンジーの群のメス同士は没交渉となる傾向が強いのであり、メスは猛獣から我が身を守るために止むを得ず群社会に身を置いている感がしてならない。


 文明というものが生まれたと同時に人口爆発が生じた人間社会にあっては生息密度が異常に高くなってしまい、オランウータンのような「単独生活者」の暮らしは不可能ではあるが、他人を無視できる知能を持ち備えている人間であるからして、周りの人間を全て無視してしまえば、オランウータンと同様な生活ができるのであり、先に紹介した篠田嫗(おうな)の生き様がごく自然な生き方ではなかろうかと思えるのである。

 ヒトは決して「社会的動物」ではなく、本質的に「単独生活者」の気質を強く持っており、「単独生活者」となって初めて心の安寧が得られるのではなかろうか。

 小生には、そのように思われるのであるが、いかがなものでしょうか。


 もう1点、付け加えておこう。

 先に、ヒト社会は「将来的には男女平等のペアとなり、永久婚ではなく、期間限定の配偶婚となりそうな雲行き」と書いたが、これは楽観的予測であって、実際には甚だ怪しいものであると小生は捉えている。

 というのは、単独生活者である原猿類であっても、先に紹介したように「メスが発情してフェロモンを強烈に発すれば、オスがその匂いに引き寄せられて一時的にペアを作る」のであるが、ヒトは残念ながらそれができないのである。

 ヒトのメスも排卵期になると発情フェロモンを発するのであるが、ヒトのオスもメスもフェロモンを感知する嗅覚器官(一般の臭いを感知する器官とは別の物)を著しく退化させており、ヒトのオスは発情フェロモンを感知することができず、ペアを作らんとする機会を失っているのである。

 よって、男はいつまで経っても女に濃密に迫ることができず、一時的にペアを作ることさえ危ういのである。(ついでに付言しておくが、こうであるからこそ、排卵期を迎えた女性がいっぱい乗っている満員電車であろうと女性が多い職場であろうと、男は女性に強烈に引き寄せられることなく、平気でおられるのである。もし、ヒトが進化の過程においてフェロモンを感知する器官を退化させなかったとすると、男は満員電車の乗ると気が狂いそうになり、女性が多い職場にあってはもんもんとして仕事が全く手に付かなくなり、広域的に男女が頻繁に独自交渉する複雑な複層構造の今日的人間社会は成立しようがないのであり、今日に至ってもチンパンジーと変わらぬ社会構造の中で暮らしていることであろう。)

 現代において、男女とも独身を通すことが多くなってきている原因がここにあり、女に無理やり見合いでもさせて結婚させねば、とうていペアができなくなってしまう時代を迎えんとしている。

 篠田嫗は、時代を大きく先取りし、このようにして独身を通してしまった「単独生活者」と言えまいか。

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