永築當果のブログ

ブログを8本も立て、“物書き”が本業にならないかと夢見ている還暦過ぎの青年。本業は薬屋稼業で、そのブログが2本、片手間に百姓をやり、そのブログが2本、論文で1本、その他アメブロなど3本。お読みいただければ幸いです。


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 宗教とのお付き合いにはウンザリさせられる。全て拒否してやりたいのだが、あまり波風立ててはしっぺ返しがきたりするから、そこそこのお付き合いしていかねばならぬ。

 我が家とお寺とは敷地が隣合せになっていて、当然にしてその檀家であるからして、毎年4回の行事に顔を出したり、3か月ごとにお常飯に来ていただいたりし、けっこうな出費もある。総代も4年やり、うち2年は総代長も勤めさせられた。

 氏神様は、この3月で神社総代3年任期を全うし、お役御免となったから、ほっとしているものの、一段上の神社の平総代を今年度から3年勤めねばならぬ。神社の付き合いは出費もかさむ。毎年いりもしないお札を3点セットで買わされるし、親父の代には特別に4人だけが高額の寄付をさせられたりもした。

 もう一つはお墓の管理組合である。お墓を持っているかぎり年に1回の行事に顔を出し、清掃奉仕、これは女房に行かせているが、年に1回出ねばならぬ。そのうち組合長の役を仰せつかるかもしれない。その役を仰せつかることになるのは、ここ数年のうちにかなり高い確率であろう。

 大きな役は以上で一旦終わるが、中程度の役としては、お寺当番とお墓当番が数年ごとに回ってくるし、神社当番は10数年ごとに回ってくるのであり、いずれも当番長にさせられる可能性は大だ。

 なんだかんだと役を与えられ、いつまで経っても縁切りさせてもらえない。うまく仕組まれているものだ。

 今年、数えで70歳になった小生であるが、後期高齢者となった段には、“檀家を止め、氏子から脱会し、墓を引き払って、綺麗サッパリなんにもなし。”とでもしたいくらいである。

 そうそう簡単にはまいらぬが、小生がヨボヨボになって、息子に代替わりするときが近づいた折には、引き続き息子は遠くに居を構えているであろうから、飛ぶ鳥跡を濁さず、であるからして、そのようにしておかねばならぬ。 と、真剣に考えるようになった。

 そこで、そろそろ策を練らねばならぬ。

 お寺もお宮もお墓も信仰の対象ではあろうものの、あまりに形骸化し、俗化しているがゆえに、まともに信仰しようという気には全くならず、ただただ迷惑な存在以外の何物でもないと強く感じているし、息子とてそうであろうから、これらの始末は小生の義務でもあるのだ。

 

 ところで、お寺であれ、お宮であれ、お墓であれ、そうした所でお参りするときは、何らかのお祈りをし、お願いをするのが常であった。

 しかし、このお祈りは「請求書付きの要求」であり、これは全くの無意味なものであることを、小林正観さんの著書で知った。

 このことについては別立てブログの次の記事で書いた。

 晦日詣、初詣のお祈り:「請求書付きの要求」ではなく、「ただひたすらに神様に感謝」
 それ以来、そうした所へお参りに行かねばならないときは、格好は参拝の形を取らざるを得ないが、感謝まではその神様にはできないものの、何も要求しないことにし、心はいつも無の状態にしている。

 

 とは言っても、小生は、完全な無神論者にはなりきれないでいる。

 例えば、いい野菜が取れたり、豊作であったときには、“お天道様に感謝”、“地の神に感謝”であり、“野菜の神々に感謝”である。また、たとえ不作であっても、“よき試練を与えたもうた、失敗は成功の元。有り難うございます。”と野菜の神々に感謝である。

 こうした八百万の神が“いる”とは全然信じていないものの、だがしかし、“いる”ものとして感謝の言葉を心の中で唱えると、不思議なことに何だか心が安寧になるのである。

 小生は半農半商生活をしており、商売の面では、推奨品が売れたときには“お客様=「神様」に感謝”であり、お客様は神様ではないけれども神様のようにも思えてしまう。

 こうして、毎日の生活が、何かと“感謝、感謝、感謝”であり、この言葉を心の中で発することが常態化し、いつしか感謝イコール神々になってしまい、何もかもに神様がついてまわるようになった。

 こうした生活態度、こうした心境からして、小生は多神教信者であると思っている。それも極めて原始的な、そして日本的な多神教信者である。

 もっとも、先に言ったように神の存在は否定するのであるが、神の存在を否定しながら、小生の心の中に「神」が登場する。

 これはまたいったいどうしたことか。

 姜 尚中(カン サンジュン)氏がその著「悩む心」のなかで、宗教観について、『究極的には、「信じる」ということは、「何かを信じる」ということではなく、「自分を信じる」ということになると思います。言うなれば、「一人一宗教」「自分が教祖」なのです。』と言っておられる。

 小生の場合は、これとはまた違ったもののように思う。

 どちらかと言えば、アマゾン下流域を放浪するグアラニ族の思想である『人間は確かに人間であるが、同時に人間にとっての他なるもの、すなわち神でもある。神=人間、人間=神である。』というもの、つまり『神と自己の同居』、これにより近いものである。

 『神と自己の同居』となると、これは『ブラフマンとアートマン』を想起させる。バラモン教の「梵我一如」の捉え方である。

 バラモン教徒は、哲学的思索のすえ、「ブラフマン(語源:増大する)」という万有の根本原理を持つに至った。その意味は「宇宙に満ちている何かを生じさせる力」であり、漢字では「梵(ぼん)」である。また、彼らは深き森に入り込んで思索に没頭する者が少なくなかった。こうした瞑想において一番確かな存在は自分自身であり、感覚できるのは自分の呼吸だけであるから、最も本質的なものは「我(が)」であり、これを「アートマン(語源:呼吸)」と呼んだ。そして、ブラフマンとアートマンとが一体になること、すなわち「梵我一如」が真理であると考えるようになった。また、彼らは、ブラフマンとアートマンの2つが、これこそ本質であると捉えたがために、その本質性のゆえに、人間の通常の言葉では表現できるものではないとして、「不可捉、不可壊、無着、無縛」といった否定形の集合によって表現するようになった。

 どんどん小難しくなり、自分でもわけが分からなくなってきたが、ブラフマンというようなものが「神」であり、これと「我」が一体となったときに、はじめて「神」が認識されることになるようにも思えてしまう。

 こうなると、スピリチュアルとか魂とか霊魂とかの世界に近くもなるが、こうしたものはブラフマンとは全く別次元のものであり、とうてい信じられない。もっとも、その存在を全否定するものではないが、その本質となると、やはりバラモン教徒が言うように、人間の通常の言葉では表現できないものではなかろうか。

 

 今のところ、小生の宗教観というものは以上のようであり、これから年を重ねるにつれて変わってくるかもしれない、いや変わるであろう。

 だが、どう考えたって、どこかの宗派のだれか偉い方に“神とはこうしたものだ、神の思し召しのままに”などと言われても、“そんなんのは神じゃねえ”と反発するしかない小生である。仏にあっても同様だ。

 

 実にまとまりのない駄文となってしまい、これを読まれた方は憤慨なさるであろうと思うも、せっかく書いた記事だからと、つい投稿してしまいました。失礼をお許しください。

 

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