生命エネルギー論に入る前に思考をクリーニングして
完全に「中立」にする必要がある。
常識を前提に思考を進めればこの理論は迷路に入る。
野人と同じ起点に立ってそこから進めなければ理解出来ず、一般常識との比較はあとからすればよい。
簡単な物理論、方程式のようなものだから、一般論や自分の「思い」を持ち込まず、起点と道理に矛盾、間違いがあるかどうかだけに集中していただきたい。
人は何の為に食べるのか 何の為に眠るのか
この理由をあらためて真剣に考える人はいない。
そんなこと・・当たり前・・と。
種がやがて大木に育つのも当たり前、動物が複雑な思考で行動するのも当たり前、人の心が個々異なるのも当たり前。世の中当たり前だらけだが、当たり前とは深く考えずとも答が出せる便利な言葉だ。
便利だから、これほど多くの人間がわけがわからない病に苦しもうがそれが当たり前になってしまった。
現状は皆そうなのだから・・風邪をひくのも体臭口臭もハゲるのも、高血圧もガンも冷え性も老化も当たり前、そう思えばあらためて疑問も湧かなくなる。
理由を考えても長年研究してもわからず、治せず、何が効くか、どうすれば治るか、その「対策を考えるのが当たり前」になってしまった。
思考の起点を間違えれば結果が出るはずもなく、出なければ人はあきらめるようになりそれが当たり前になる。
だから対策グッズがうんこのように誕生
一大産業が築かれたのだ。
こんなバカげた思考は人間だけ・・そのような志向にはとても付き合い切れない。
物事の仕組みはすべて「立体で一対」、高さがあれば低さもあり、右があれば左もある。
便利の反語は不便、メリットもデメリットもある。
効果だけを求め都合の良い方に思考を進めればデメリットが見えることはない。
さらに不都合を継ぎ当て修正しながら高さだけを積み上げれば足元はますます見えなくなる。
ああ言えばこう言い、プライドが窮地に立つことや逆戻りを許さない。
素直に「ごめんなさい間違えた」・・と言えば良いではないか
「あ・・ごめん、間違えた、痛かった~?」など
自分でも聞き飽きるほど言った。
野人思考は、座礁、挫折の積み重ね・・
「あ・・寝ったい」の白い懺悔礁・・
少々の津波ではビクともしないお石灰石の護岸
根拠も効果もなく「完全な結果」も出ない学説を発表し続ける学者も無責任だが、何も考えず受け入れる方も無責任、そのツケは思考共々その子孫に回って行く。
「あれも考えられるこれも考えられる普通はこうだ」は思考の墓場、「はっきりせんかい」と言いたくなる。
食べる理由、眠る理由など猿も猪も考えないし、野人だって考えたくもない。
そりゃヒマ人のやることだ。
地球上の生き物にとって当たり前の事が人間だけ当たり前にならないのなら考えるしかない。 イヤだけど・・
上ではなく大地の足元から常識の起点を見上げ、アラを探しイチャモンつけるのが野人思考だが、下からスカート覗くみたいでやや 心苦しいのだ
科学は食べ物の仕組みも睡眠の仕組みもごっちゃにして考え、ややこしい学説が今のところ主流だが、はっきりとした答は出ていない。
わからんのならわからんでいい、わからんと言えばいいのに・・勝手な解釈で医学、薬学、健康学、栄養学、生物学、目まぐるしく変わるそれぞれの主張を年々うんざりするほど聞かされて来た。
こうだろう・・ああだろう・・では
アタマもタマタマもたまったものではない。
健康は上向きどころか株価チャートのように下落の一途をたどっている。
野人は・・シカたなくはっきりさせた。
ギャンブラー・ムーには、現実の出来ごとはすべてブツリチャル、○か×か、半か丁かしかない、
できるだけも、なるべくも、玉虫色も桃色吐息もなく
一発撃沈。
自然界の道理から答をはっきり特定した。
食べる理由、眠る理由をはっきりさせ、ここから野人の生命エネルギー論は始まる。
前置きが長かったが、次回から本題だ。
続く・・
野人原人 野原のエネルギー論