フトモモ物語 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

東海大学海洋学部卒業後、ヤマハ株式会社の前身である日本楽器製造株式会社、浜松本社に社長直轄の海洋特務員として入社、南西諸島の島々を転々とした。 (テーマ最下段 連載東シナ海流)


特務員と言えば聞こえは良いが、ボディーガードから潜水調査、エアタンクの充填、海中撮影、操船、日課の気象図作成、釣り、大量の放し飼いクジャクの餌やり、船や車やバイクのエンジン修理、クレーン、デリック、ブルドーザ、社長と来賓のお守り、ビリャード、麻雀、お遊び、何でも屋だった。

自社飛行機の管制塔、滑走路の整備点検、両手で離着陸を誘導するデスパッチャーもやった。


楽器会社だから、本社では一応オルガン輸出担当をスーツネクタイ姿で数か月務めたが、あくびが出てたまらない。

ヤマハスピリッツ育成の為に1年間これをやれと言うのだが、野人スピリッツクラッカーには余計なお世話。


「バカバカしくてやってられん、辞めるパンチ!


・・と、抗議すると社長命令で鹿児島空港へ。

待っていたセスナに乗り継ぎ、火山噴火が活発な諏訪之瀬島へ到着、島流しのようにそのまま赴任した。

うっぷんを晴らした爆弾本社空手部は一日で出入り禁止、話が広まりバツも悪いし丁度良かったのだ。


5年間で諏訪之瀬島1年間、薩摩硫黄島、屋久島、小浜島に駐在、屋久島は3年で最も長かった。

通常サラリーマンは辞令が出て準備期間もあるのだが、さようなお上品なものはなく、本社からの電話一本で即移動、しばらくして形だけの辞令が届いた。

夕方の電話で翌朝出発が一番早く、在籍23年間タイムカードとも縁がなかった。

余計な指図と、時間に縛られるのが死ぬほど苦痛な野人はそれを条件にヤマハの仕事を請け負った。


どの島も海の食べ物にはまったく不自由しなかったが、美味しい水と山の食べ物が最も豊富だったのが屋久島で、休日に腰を据えて散策出来たのも屋久島だった。

他の島では、月に4日の仕事を兼ねた鹿児島での保養以外年中無休だった。何もない島だから休日をとってもやることがない。


子供の頃から食べ続けた「木の実」がなければ野人の脳みそは干からびて知恵は枯渇、日本一過酷な海では生きては行けない。

海山の狩猟、木の実の採取、遺伝子に組み込まれた本能の赴くままに生き延びてきたのだ。

会社の規則などに馴染めるわけがない。


借り上げ社宅だった古民家の庭には放置されたバナナ、近くにリューガンの木はあったが物足りない。

干からびずに済んだのは山のシマサルナシとフトモモのおかげだった。


続く・・ 全2編


東シナ海流2  ヤマハが呼んでいる

http://ameblo.jp/muu8/entry-10092766394.html

東シナ海流3  社長室で面接

http://ameblo.jp/muu8/entry-10092984814.html

東シナ海流49 諏訪之瀬島を去る日

http://ameblo.jp/muu8/entry-10142293007.html

東シナ海流50 鬼の住む島 硫黄島

http://ameblo.jp/muu8/entry-10143523870.html


諏訪之瀬島赴任 24歳
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じいさん・・ 社長・・
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