島を去る日が来た。
赴任から丸1年間の諏訪瀬島暮らしだったが、色んなことがありすぎて数年間のエネルギーを費やした気がする。
海底火山の頂上ゆえ、強烈な地球のエネルギーが渦巻き、こんな過酷な島もないが名残惜しい。
やり残した事はたくさんあるのだがじいさんの命令だ、仕方ないだろう。
短い間だったがやるだけのことはやった。
特に波乱万丈とも思わないが退屈はしなかった。
この島から学んだことは多い。
一番考えさせられたのは「人の生と死」についてだろう。
いくら懸命に生きようとしても死はあっけなく訪れる。
真面目に働こうが、前向きに生きようが、健康であろうが、そのような事とは無縁の場所で待ち構えている。
人は生まれた瞬間から死と隣り合わせなのだ。
それが生あるものの宿命だろう。
事故と無縁の人も老いと死に向かって歩き続けなければならない。
17歳の時からそれは理解していたが、この一年間でそれが筋金入りになったようだ。
思いもよらぬミスが己の運命も人の運命をも変えてしまうのだ。
死の覚悟は出来てはいるが、そんな死に方だけはしたくない。
一時は気持ちが荒び、鹿児島の霊能者に「まるで日本刀の抜き身が歩いているようだ」と言われた。
「死に場所を探しているのか?」とも言われた。
その時はそうだったかもしれない。死は恐れてはいなかった。
しかしつまらないことで犬死にする気もない。
納得すればそれで良かったのだ。
自ら敗北を認めた時がその時だろう。
その気持ちに変わりはないが、一日一日を大切にしようと思い始めた。
別に精一杯真面目に努力しようと言うのではない。
ぐうたらでも一向に構わない。
翌日に悔いを残さない人生ならそれで良いのだ。
住友建設の人達や島の人にお別れの挨拶をして回った、ヒッピーにも。
本当にお世話になったし迷惑もかけたように思う。
彼らにしてやれたことは、話題の乏しい島で「退屈させずに話題を提供し続けた」ことだろう。転勤は新たな始まりだ。
相変わらずじいさんは無理難題を言ってくるだろう。
それもまた楽しみにするしかない。
何しろ年がら年中「チャレン爺~」なのだ。
じいさんに振り回される度に自分が成長するのも感じている。
諏訪瀬島の開発調査は一応終わり、後は宿泊施設の建設を待つだけだ。
次の赴任地は薩摩硫黄島、鬼の住む島と書いて「鬼界ヶ島」とも呼ばれている。
その昔「俊寛」や「源為朝」などが流された島だ。
諏訪瀬島ほど活発ではないが、島の中心の硫黄岳は毎日噴煙をあげている。
島民は二百人足らずで平家の落人らしい。
そこには既にヤマハの宿泊施設があり私設飛行場もある。
今度はお客様の相手をすることになる。
荷物は大きなバッグ一個と段ボール二個分しかなかった。
皆に見送られながら住み慣れた飛行場事務所の前から「アイランダー」に乗り込んだ。
断崖から飛び立った飛行機から見える海はいつものように青く澄んで、御岳の頂上は相変わらず噴煙をあげていた。
さらば諏訪瀬島・・・