武術の力学と哲学 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

大学では、拳の腕立て、指立てはやったが、空手独特の「巻きわら」は一切突かなかった。

いくら痛みに耐えて鍛えて拳ダコを作ろうが「石や鉄」より硬くはならないからだ。

突いた時に拳の関節を傷めないように鍛えるのが目的で、拳より硬い物の破壊ではない。

破壊するなら「カナヅチ」を使ったほうが確実で早い。

イヤだったが、分厚く困難な「試割」などの演武会には借り出された。

来日していたモスクワ大学の総長夫妻の前でも技を披露、弘田三枝子ショーのアトラクションでもやらされた。

忍者のような野人のバック転や飛び技が華麗なせいもあるがやはり破壊力が重宝された。

イザと言う時に役立つからクビにはならなかったようだが、普段から拳を鍛えているのだから自分達でやればよいのだ。

保険代わりのカナヅチを懐に忍ばせて試割りにのぞんだこともある。

練習もサンプルもなく、いきなり硬そうなヤツを割れと言うのだ。

本番で「やっぱ 痛いからやめとこ」と思ったらそれを使えば観客も笑って許してくれる。

そもそもそのようなものは見せるものではないと野人は思っていたしお笑いのほうが良い。

硬さだけではなく、瞬間的スピードと物理的タイミングと「気」が必要なことに仲間は気付いていなかった、もっとブルース・リーを見習った方が良い。

野人は大勢の空手部、運動部の中で力も握力も瞬発力も群を抜いていたが、それらを頼ることなく磨く必要もなかった。

早い話、運動は・・・嫌いなのだ。

高校の水泳部も練習しない居候でも結果は出し、30歳で三重県国体予選で優勝した時も、12年間プールで泳いだことすらなかったが物理で答えを出した。

流体力学から水の抵抗を削減、前半と後半で使う筋肉を変えると言う奇抜な手法で、高校より記録は伸びて大会新だった。

それらの道理があってこそ「練習」による効果が得られるが、そこまで望んでいない。

ほどほど、必要なだけで十分、頂上志向も持ち合わせていない。


色んな角度から理を説いてきたが、理とは便利な道具に過ぎない。

空手と言う武術の真髄は五体の天性機能をフルに使って急所を一撃することにある。

強い拳も時には必要だろうが、野人は武術を立体的に捉え、総合的に探究した。

最初から空手の本質を貫いたつもりだが、同じ考えの男に会ったことはない。
倒せずして防御は成り立たない、それが武術における陰陽の法則。

しかし、「倒さずして防御」するのが護身術の神髄であり、それが人間としての知恵と誇りだと思っている、戦わないにこしたことはないのだ。

サメも熊も最低限の労力で傷を負わせず撃退出来ればそれでいい。

哲学は理ではなく心、自由に決めれば良い。

ただし生きる為の最小限の食いものは例外だ。

それを・・森羅万象の保身術、捕食術と言う。

ここでズッコケた人は、まだ平常心と・・

理が・・足りない。



・・

おにぎ ・・  食べる?
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