立体思考とは その仕組み2 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

点で捉える最も多い例が「言葉で捉える」と言うことだ。

線で捉える最も多い例はそのことについて言葉を並べること。

面で捉える最も多い例はあらゆる分野を言葉で覚えジグソーパズルのように平面に敷き詰めること。

つまり単純な名詞だろうが仕組みのあるものであろうがひとまとめにして覚える。

「これがこうなりこうなっている」と当人は理を追っていると思っても言葉の積み木のようなものだ。

それは会話していればすぐにわかる。

「何で?」と聞くとその道理を答えられないからだ。

いくら本を何万冊読んで覚えようが使いこなせなければ役には立たずインフレの紙幣のようなものだ。

これが現代の勉強の常識になっているのではないだろうか。

小説や詩などは別にして、理を説いた本は読むものではなく、健康や自然界や植物などはすべて理の世界なのだがそのような本はまったく見かけない。

言葉を覚えることと仕組みの判断とはまったく関連性はない。

国語や社会の勉強法が数学物理に通用しないのはそれが理由だ。

自らの思考回路で判断出来なければ答えをそのまま採用、実行するしかない。

その答えも個々の感性でどれを選ぶかが異なって来る。


人は知恵を駆使して今の文明を築き上げたが、そのベースは自然界だ。

自然界から理は生まれ、自然界の道理から答えを出す思考回路も生まれた。

つまり自然界は手本となる聖書のようなものなのだが、ベースは同じでも人の解釈の違いから生まれた対立は今も尾を引いている。

その解釈の違いの結果が現状ではなかろうか。

色んな学説が飛び交い、最も有力なものが常識となり、その常識もまた時代と共に塗り替えられて行く。

文明の歴史は間違いと修正の歴史であり、今が完全ではないことは確かだ。

パラダイムとは全人類の常識が覆されることであり、それはこれからも続く。


野人はこの自然界と、文明の頂点とも言える学校の教科書、あらゆる専門書を常に照らし合わせながら実体験と共に幼少より学んで来た。

教科書であろうが先生の教えであろうが、学者の言葉であろうが間違っているものは間違っていると誰に対してもはっきり言い切り、そのように行動して来た。

奇人、変人、野人、野蛮人、不良・・と、あらゆる称号をいただいたが、何と呼ばれようが気にするほどのことでもなかった。

体力も反射神経も瞬発力も強烈だったが、学はまったくないと友人達からも思われていた。

デスクワークもせず遊んでばかりで結果が出るのは頭のせいではなく稀に見る強運だと・・

ヤマハ時代の同期生が付けた称号は・・「パワーだけの野人君」(笑)だった。

まあ主たる業務の一つは「用心棒」だったから仕方ないだろう。

立体思考とは野人が子供の頃から使いこなしたくらいだから単純で簡単なもの。

言葉でまとめれば数行で済むことだが「理」というツールがなければ理解は困難だ。

そこで、農法、自然講習だけでなく「理」の講習もやることにした。


学びの法則

http://ameblo.jp/muu8/entry-10809195454.html


生涯学習 人生終わるまで勉強・・は良いのだが、学習とは何か、勉強とは何か、何の為にやるのか、自分の為に、世の中の為に役立たせる為ではないのか、あらためて考えてもらいたい。

その目的によって学びの手法は大きく変わる。

学びに常識などあるはずもない。