土壌は生命の聖域 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

大地は地上のすべての生命を育んでいる。

その仕組みを築くのは植物だ。

荒れ地に先行する草が生え、政権交代を繰り返しながらやがてブッシュになり、やがて木々が茂り森になって行く。

数億年かかってその仕組みは出来上がった。

その仕組みが途絶えた地域はなかなか元には戻れない。

年間を通して雨が降ればすぐに復元するが、乾期が長い地域では砂漠化が進む。

雨の多い日本では復元が当たり前で、その当たり前の上にあぐらをかいているようだ。

完全な土壌形成に最も重要な草と虫を排し、人間の道理で農地を工場化するのは豊富な雨量と財力にものを言わせた手法で「植物の早期量産」が目的だ。

工業製品ならわかるが植物は生きている、人は何故それほど急ぐのだろうか、何故土作り野菜作りと称して生き物を作ろうとするのだろうか。

養鶏、養殖魚と同じような方法では味も本質も本来のものとはかけ離れてしまう。

人は自らの生命を維持するのに最も大事な野菜さえも養殖に変えてしまった。

そして環境のみならず自らの体までも狂わせてしまったようだ。

滅びゆく地球と滅びゆく人類、まったく同じ道理で連動している。

大地への対峙姿勢の結果がそのまま人類に返って来ていると言うことなのだ。

その巻き添えになっているのは海と陸の多くの生き物達。

生き物達だけでなく、人間自らの細胞、地球までもが警告を発している。

そこに気付かない限り負の連鎖は永遠に続くことだろう。

負の連鎖を修正出来るのは人間しかなく、自ら招いた災いは自ら刈らねばならない。

人が何もしなければ自然は復元するが生きる為にはそうはいかない。

既に結果が出て破滅の方向に進みつつある現状の手法を180度変えれば良いのだが、何百年何千年続いたやり方、思い込みを修正するのは困難だ。

社会の仕組みもそのように出来上がり、その崩壊は相当な痛みを伴い抵抗もある。

しかしやらなければ座して死を待つだけだ。

他の生き物のように寿命を全う出来るはずもなく、多くの人達が飢え、不治の病に怯えて暮さなければならないのだ。

人は苦しむ為に生まれて来たのではない。

人生を通して文明ではない森羅万象の道理を知り、生きる喜び、愛、慈悲を知る為だ。

文明は人の思いと知恵が築くもので、価値観同様に時代と共に移り変わる。

人知を知ることも必要だが、足元の大地を知ることの方がもっと必要だ。

野人は、海を、大地を復元する使命感を持っている、その為に生まれてきたようだ。

生まれた時からこれまで、海、川、山まで地球の生き物の進化の過程を体感、20年程前に形らしきものが見え、10年前にその為の会社を立ち上げ、3年前にやっと進むべき道が定まった。

その為にブログを開始、書き続けて来た膨大な独自の理論はその集大成であり50年かけて確信を持って生み出したものだ。

人はこれ以上土壌の破壊と異物投入を続けてはいけない。

土壌はすべての生命の聖域なのだ。


生命の大地

http://ameblo.jp/muu8/entry-10408519250.html



大地も海も人も養分過多1

http://ameblo.jp/muu8/entry-10536758957.html

大地も海も人も養分過多2

http://ameblo.jp/muu8/entry-10536829581.html

植物が築く浄化槽の仕組み1

http://ameblo.jp/muu8/entry-10585598965.html

植物が築く浄化槽の仕組み2

http://ameblo.jp/muu8/entry-10585599908.html