常識は非常識から生まれる | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

その時代の常識とは新しい知識が浸透した状態を言う。

それまでは常識ではなかった。

つまり常識は必ず「非常識」から生まれると言うことだ。


9日の「ムーの海底遺跡」の続編のようなものだが、非常識はそれまでの常識には馴染めない。例えその常識が間違っていても、人は長年信じ込んだ知識を選択するようだ。

自分自身が根拠と確信を持っていなくともそうなるのは、人は心を大切にするからだろう。

本能よりも理論よりも心が優先する。


昔の人が、地動説を信じない、人が空など飛べるはずがないと言うのがそれだ。

どう思おうが考えようが自由なのだが、常識にこだわるより柔軟に考えたほうが知識の幅が広がるはずだ。

自分の「思い」にそぐわないことを言う人がいるなら、「そんなバカな」と、はなから否定するより、何故そのようなことを言うのか耳を傾けることが大切、判断はそれからでも遅くはない。


判断とは「私はやはりこう思う」ではなく、数学物理だ。

思うのは自由だが、正しいかどうかは理に適っているかどうかだろう。

道理が理解出来なければ判断も出来ない。

個人的な判断と違って自然界の判断とは数学の答えを出すようなものなのだ、答えははっきりしている。


常識から文明が生まれることなどはない。

現代の常識の数々は「たった一人の非常識な人間」が作ったもの。

コロンブスの卵の話のように、必ず最初にやった人間がいるからだ。

他の人間はその恩恵を受けている事になる。

自信をもって口にする「常識」は自分で築いたものではないのだ。


当たり前のように飛行機で海外へ行けるのはライト兄弟のおかげだが、二人揃って非常識だと皆にバカにされただろう。

バカな男達が文明を築いたとも言える。

野人もバカだから世界の「食文明」を根本から変える事が出来るかも知れない。