12.29ー兄ちゃん神 | 村尚也ブログ 過剰なままに

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おどりの空間 主宰 村尚也が、時に熱く、時にクールに日々を綴ります。

毎年恒例で、水天宮の自室の門松やお飾りなどを整えて、赤羽へももう一組を抱えて電車に乗る。

今年はなんとなくどのお飾りも質素な気がして、求めるのに少しこまった。こういう年こそ、華やかに歳徳神をお迎えしたほうがいいのに…

世間の風潮に合わせるのが一般市民だが、私たちの仕事はいつも「祝福」の心を忘れてはならない。


人形町はさすがにお飾り店は多いのだが、赤羽はとうとうそれらが撤退。鏡餅を扱っていたいた店の一軒は住宅になり、もう一軒の和菓子屋は大晦日まで休業だ。

神棚のごぼうじめも西友で売られるようになって、「めでたさ」や「祈り」もコンビニエンスになった。


なぜ、テキ屋と言われる人々の店でこれらの「縁起物」を求めるかといえば、聖と俗は一体化しているからで、昔で言えば流浪するような民によって「縁起物」はもたらされるべきだと考えているのだ。

要するに、芸能の民、僧侶などと同じく常に境界外にいる覚悟のものが、めでたく境界内の人々と接しられる数少ない機会でもある。

日本の神は常に流浪しているから、これらの民が疑似神となってこそ「縁起」は成立する。すべては心を納得させ、周囲の「気」自体を神を招く波動に変えていくことなのだ。


昨年のお飾りを10日のお焚き上げにすることを了解してくれたお飾り屋の兄ちゃんに僅かな祝儀を渡した。怪訝な顔をした彼に「これはお賽銭」と言ったら、兄ちゃんはしっかりとそれを握りしめ急に真面目な顔になった。兄ちゃんはその時神のお使い、いや、神になったのだ。