織田家三兄弟 | Money-Cruiser

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「世の中銭や」

織田家嫡男、織田信忠 (のぶただ) 沈着にして豪胆 本能寺の変では父信長を救出すべく手勢を整え出立する直前、明智勢に攻め込まれあえなく自害。力量に優れ、もし信忠存命なら秀吉、家康の天下はなかったと言われている、、、


織田家の悲劇は信長、信忠亡き後次男信雄(のぶかつ)と三男信孝 (のぶたか) の折り合いが悪く激しく対立した事にあった。信孝は、山崎の合戦で秀吉に与力したにも関わらず、その後の処遇に、不満を募らせていた。


これを察した家臣が進言する。殿、羽柴筑前は三法師様を擁し、後ろ盾と成りて天下を牛耳る、腹積もりで御座いまする。このまま捨て置けば、容易ならざる事態となりましょう。如何にも、あやつに天下は渡さぬ!元はと言えば、父上の草履取りではないか、、、


秀吉に対抗すべく信孝は、柴田勝家、滝川一益らと結び、秀吉討伐の兵を挙げる。これに対し信雄は、秀吉側に付き二人は岐阜城で対峙する。暫く膠着状態が続いた後、勝家、賎ヶ岳 (しずがたけ)にて破れるの報を聞くや、信孝は降伏して開城、大御堂寺に幽閉された後自刃、無念の最後を遂げた。享年二十六歳であった。


この賤ヶ岳の戦いでは、後に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれる加藤清正、福島正則などが、華々しく登場している。この後信雄は一転して家康を頼り、小牧長久手の戦いが始まる、戦いは終始家康側が優勢であったが信雄が秀吉と単独で講和を結んだ為、家康は戦う口実を失ってしまった。


家康は、信雄に問う。御曹司、如何なる所存で和議を結ばれたのか、得心のいく御返答を、受け賜わりたい。信雄が答えて、いや浜松殿、これには訳が御座る。このまま長引けば、あの筑前の事如何なる策を、弄すやも知れませぬ。


ここは急ぎ、和議を成すが上策かと、これを聞いた家康は、激怒する。これはしたり!、この家康が羽柴殿に遅れを取ると申されるか?相分かった、御貴殿がその心底とあらば以後この家康、貴殿には与力致さず!


元来信雄の懇願を受けて、戦いに臨んだ家康であったが、その本人が和議を結んでは如何ともし難く、兵を引きこの小牧長久手の戦いは、両者痛み分けに終る。その後信雄は、秀吉配下となり行動を共にする。幼少の頃、さる さると呼び遊び相手であった秀吉を上様、殿下と呼ぶのは、内心忸怩(じくじ)たるものがあったに違いない。


しかし下克上は戦国の常、この後信雄の運命は二転三転し、最後は京で七十二歳の天寿を全うした。安土城を焼き、評判の良くなかった信雄であったが兄弟でただ一人、平穏な最後を迎えた。それにしても、あれだけ強固に思えた織田家臣団が簡単に崩壊したのは、やはり嫡男を失った影響が大きかったと思われる。


家臣団も信雄派、信孝派に割れ、力を半減させてしまった。歴史にもしはあり得ない、しかし本能寺で信忠が生き延びていれば、又違った展開になった気がしてならない。。。