前置胎盤の妊娠・出産

ミレニアムベイビーなんて言葉も飛び出した2000年。

私もそれに漏れず、予定より1ヶ月早く、長男を授かりました。

けれど、その妊娠生活は次から次へいろんなことが起こる大波乱。


切迫流産、切迫早産、前置胎盤、全身麻酔での出産。

そして産んでからもNICU(新生児集中治療室)通い、搾乳の日々。


自分でもそうだったのですが、前置胎盤に関する情報って

思いのほか少なくて、調べるのにとても苦労しました。


もし、同じような状態の妊婦さんがいたら、

少しは参考になるかもしれないと思い、

そのときの体験をブログにまとめることにしました。


ではでは。

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子供に会えない・・・・

2000年 10月 17日 AM2:18

出産を終え、MFICUの病室に戻ってきたのはAM5:30くらい。

麻酔がようやく切れてきて、隣に座っている主人がぼんやり見えました。

するとそこに看護士さんがやってきて、

「他の患者さんたちの起床時間になるので一度 帰られてください」

と主人に告げているのがわかりました。


まだ朦朧としている頭の中で、

「やだー、帰らないで!」

と必死に頭や手を動かそうとしたのですが

全然言うことを聞いてくれなくて、

私の意志は主人に伝わりませんでした。


後から主人に聞いたのですが、

このときの私の様子、

おかしな人形みたいだった

ということです。


主人が帰ったあと、徐々に麻酔が切れてゆき

意識がはっきりしてきました。

手足もだいぶ動くようになってきて・・・・


午後になり、再び主人がやってきました。

そして、NICUの面会時間になり、主人だけそちらに。

前にも書きましたが、NICUの病棟は離れているため、

車イスに乗れるようにならないと行けないのです。

なので、私は自力歩行ができるようになるまで

我が子に会えない、ということに。


しばらくすると、主人が戻ってきました。

子供はすでにNICUではなく、

GCUという軽い症状の子供が入る施設に移っているとのこと。

これは心配していた感染症もなく

また黄疸などの症状もなかったため、ということでした。

そして、数枚のポラロイド写真を持ってきてくれました。

GCUの中にはポラロイドカメラがあり、

頼むと1枚300円で子供の写真を撮ってくれるんです。


こうして、我が子との初対面は写真でしたのです。


トントン


小さな体にいろんなものがついていて、

なんだか痛々しい感じがしました。


夕方になり、主人や駆けつけてくれた両親などが帰り、

病室にひとりになると、私はずっとこの写真を見つめてました。

そして、産んだ喜びより、会えない悲しみのほうが強く、

写真を見ながら ずっとずっと 泣いていたんです。


会いたいよぉ~


会いたいよぉ~


なんで?


どうして一番苦労した私が最初に子供に会えないの?


いろんなことに耐えてきたのに、なんで主人や他の人が先に子供に会うの?


産声も聞けなかった。


会うのもできない。


なんで、産んだのに、こんなに悲しい思いをしなくちゃならないの?



本当に一晩中泣いてたんです。

会いたい 会いたい 早く子供に会いたい。


今、こうして5年前のことを書いていますが、

このときのことを思い出すと今だに涙が出てきます。

産んだ本人が最初に会えない理不尽さが辛かった!

主人が悪いわけではないけれど、

どうしても納得できなかったんです。

私より先に子供に会ってきた主人が憎く感じるほど悔しかった。


お世話になった大学病院ですが、

私が出産をした翌年から産科とNICUが同じ病棟になり、

子供との面会が容易になったみたいです。

私のときにもそうだったらよかったのに・・・・・・

出産

2000年 10月 17日 AM2:00

手術室に入るとすぐに手術の準備が始まりました。

天井の照明が明るすぎて目がくらむ中、

幾人かの人が手術着をめくって消毒などをし、

別の人が私の喉に管を入れようとしました。

無理矢理、管が入ってきたのですごく痛く、

目の前にあった何か細いパイプを掴んで

イターイ、と耐えていたとき、隣にいた人が

「それ掴んじゃダメ!」

と言いながら、パイプを掴んだ私の手を剥がそうとしたとき

「だって痛いんだもん!」と言おうとしたところで

麻酔のマスクがかぶされ、その途端、

あっという間に意識がなくなりました。


そして・・・・


2000年 10月 17日 AM2:18

35週と4日 出産

2176グラム、45センチ、低体重児。



全身麻酔だったので産声も聞けなかったし、

どんな様子だったのかもわかりません。

あとから、看護士さんから

「ちゃんと 泣いてましたよ」って聞かされました。


たまちゃんは男の子。

(これからはトントンと呼びますね)


生まれるとすぐに保育器に移され、

すぐに手術室を出てNICUに運ばれてゆきました。

手術室前の待合室で待っていた主人の前で

一瞬だけ止まってくれて、主人はトントンと対面できたようです。


私はというと手術時の出血が予想通り多かったらしく、

それらの処置を含めて手術時間は53分となっていました。

出血量は 1111ミリリットル

採血しておいた自己血はすべて使いました、ということでした。


すべての終えてMFICUの病室に戻ったのは午前3時半過ぎ。

この日は特別に主人も面会時間外でしたが

病室にいることを許可してもらえて、ずっといてくれました。


けど、私は麻酔が切れず、ずっと寝たまま。

主人に言わせると、手術室から出てきたときの顔色は真っ青で

すごくヤバそうだった、ということです。


こうして 昨夜からの出血から始まった長い夜は明け、

午前6時頃、麻酔が切れて目が覚めたのでした。

緊急帝王切開までの1時間半

2000年 10月 17日 AM0:00過ぎ

担当の看護士さん2人が急いでかけつけてきてくれました。

2人とも寝耳に水という感じで驚いてました。


看護士さん :

大丈夫ですか? たいへんでしたね。

昼間まではあんなに穏やかだったのに・・・・


真夜中に呼び出されたというのに

こちらを気遣うような対応をされて、

なんだか申し訳ないような気分になりました。


私 : すみません。こんな夜中に・・・・


看護士さん :

そんなの気にしないでください。

りんさんは これからがたいへんなんですよ。


私は手術をしてもらうだけだけど、

なんだか がんばって手術しよう、なんて気になりました。


しばらくすると その担当の看護士さんがやってきて

一緒に分娩待機室へ移動しました。


手術開始までにやることとして、まずは レントゲン撮影

終わるとトイレに行き、排尿を済ませました。

続いて手術服に着替え、剃毛をします。

あと、注射もしたかな?(記憶が定かでなくて)


このあとは手術室に入るためのベッドに横になり、

時間になるのを待ってました。


その間に看護士さんから説明が。


看護士さん :

りんさん、今夜の夕食摂られてしまいましたよね。

なので、万が一 もどしてしまったりして

気管が塞がってしまうのを防ぐために

喉のほうにも管を通すことになりますから。


なんだか聞いただけで痛いような 気がしてきました。

なんせ私はまだ胃カメラなどもやったことがないので・・・。


そして、さらにもう一つ。


看護士さん :

りんさんの場合、手術時にも大量の出血が見込まれるんですよ。

どういう事態になるかわからないので、

念のため、全身麻酔で手術を行いますから。


全身麻酔 ・・・・・


私 :

それって・・・・ 産声を聞くことができないってことですよね?


看護士さん :

そうですね・・・・・・。

でも、お母さんの体を守るためですから・・・・。


わかってはいても、悲しくなりました。


これまで何ヶ月も、

いちばん痛い思いして

いちばんイヤな思いをして

がんばってきたのは私なのに、

なんで、そんな私が赤ちゃんと最初に対面できないの?

声すらも聞けないの?


自分勝手な言い分とわかっていても、

そう思わずにはいられませんでした。

2000年 10月 17日 AM1:45


いよいよ時間になり、手術室へ移動となりました。


その時。

連絡を受けて真夜中の道を車を飛ばしてきてくれた主人が到着。

なんとか 手術室へ入る前に顔を見ることができました。


「行ってくるね」


私は手術室へ向かいました。

出血止まらず -- 緊急帝王切開--

2000年 10月 16日 PM11:30頃

願い虚しく、出血は止まりませんでした。

とうとう、ガーゼを通り越して

念のためにつけておいたナプキンにまでしみてきたのです。


再び、先生のもとに報告に行きました。

再度診察ということになり、また診察室へ。


すると、帰宅していたK先生という

主治医の先生が戻ってきてくれていて

白衣も着てない状態だったけど診てくれました。


そこで出た結論は・・・・


先生 :

全部が出血とは考えられない量が出てるんですよ。

恐らく、羊水が含まれてる かと・・・・。

つまり、破水してる可能性が高いんです。


(あとから母子手帳を見たら、"高位破水"となってました)


先生 :

明日が手術予定ということだったし、

赤ちゃんへの危険性も考えて、

これから帝王切開しましょう




この夜、帝王切開になるとは考えてもいませんでした。

確かに明日が手術予定日ではあったけれど・・・・。

突然の展開についていけない って感じでした。


けど、そんな私をよそに、

看護士さんや先生たちはテキパキと手術の準備に入りました。


私は一度、MFICUに戻り、次の指示を待ちました。


その間に

・手術室への連絡

・麻酔科への連絡

・レントゲン科への連絡

・小児科(NICU)への連絡

・担当の看護士 2人への連絡

・主人への連絡

などがされていったのです。


あいにく、ずっと担当してくれていたS先生は

別の病院の夜勤に出ていて不在。

オペは女性の先生がやってくれることになりました。


しばらくすると看護士さんがやってきて

「2時に手術開始に決まりました。

1時45分になったら手術室に移動しますからね」と。


こうして、手術予定日を前にして

真夜中の緊急帝王切開となったのでした。

これでダメなら・・・・・

2000年 10月 16日 PM10:00頃

ドラマ「やまとなでしこ」を執念で最後まで見てから、

再び 先生のところに報告に行きました。


私 :

やっぱり、出血止まりません。

もう、ナプキン真っ赤なんです・・・・・


すると、今度は診察をすることになり、

夜勤の看護士さんが急いで車イスを持ってきてくれて

診察室へと入りました。


すぐにイソジンでの膣洗浄を行い、

そのあと、細なく切ったガーゼを

どんどん膣の中に入れていったみたいです。

(感覚としてそんな気がしたので)

つまり、蓋をした、って感じ。


先生 :

これでもう一度様子を見ましょう。

ガーゼを通してまで出血してくるようなら

緊急の対応が必要になってきますからね。


ということで、再びベッドに戻りました。


小康状態が続いていた出血が、

とうとう決壊してしまったみたいです。


もし、ガーゼを通して出血してしまったら・・・・

転院した夜のように筋弛緩剤を使うのか、

それとも・・・・・・?


血が染み出てこないことを祈ってました。

出血 VS やまとなでしこ

2000年 10月 16日 PM9:00頃

こうして、再び大出血が始まりました。

先生に診てもらい、とりあえずベッドで様子を見ることに。


じつはこの日は月曜日で、

この前の週から松嶋菜々子さん主演の「やまとなでしこ」が始まっていたのです。

第1回の放送を見ていたので、この日の2回目の放送も絶対見たい、と思ってました。


ベッドに戻り、テレビのスイッチON!

横になってドラマを見てはいたのですが、

出血が気になって 気になって仕方ありません。

というのも、すでに血が出てゆくのが感覚としてわかるほど

どんどん血が出ていっていたからです。


どうしよう・・・・ 先生のとこにもう行ったほうがいいかなぁ。

でも、ドラマ、最後まで見たいよぅ。


ベッドに横になっていられなくなり、

端に腰かけてドラマを見るようにしました。

それでも、血が出てゆく感触は止まりません!



お願い! ドラマ終わるまで待って~~~~~!!!



ここまできて、ドラマを優先した私です・・・・・・(反省)

あれ? 出血が・・・・ <最後の大出血>

手術予定日の前日。

輸血の同意書にサインをし、

主人は夕方 帰ってゆきました。


明日が手術なので午後9時以降は飲食できません。

なので、夕飯を済ませ、9時までに水分をとることにしました。


こうして、いつも通り過ごしていた夜。


2000年 10月 16日 PM8:00頃

トイレに行きました。

すると、小康状態だった出血が増えていました。

まだ替える時期ではなかったナプキンが真っ赤に。

とりあえず、ナプキンを替え、ベッドに戻りました。


2000年 10月 16日 PM9:00頃

ベッドでずっと横になり、テレビを見てました。

なんかイヤーな予感があり、起き上がり、

その場でナプキンを確かめました。

予感的中です。

ナプキンだけでは受け止めきれなかった血液が

足をつたって流れてゆくほどでした。


大学病院に転院してからでは、

初めて、危険を感じるほどの出血がはじまったんです。


先生か看護士さんに報告に行かなくちゃ。

ゆっくり歩きながらゆくと、

MFICUの中央に設けられたナースステーションに

担当ではないけれど、女性の先生がいました。


私 :

すみません。

なんか、出血がひどくなってきて、

ナプキンから溢れるくらいなんです。


すると、先生が替えの大きめのナプキンを用意してくれて、

すぐに今しているナプキンを持ってくるように、と指示してくれました。


トイレに行き、ナプキンを替え、先生のもとに戻ると、

先生はすぐに重さを量り、出血量を確認しました。


先生 :

もう少し 様子を見ましょう。

少しでも出血が多いと思ったら

また、すぐに連絡してください。


ということで、ベッドに戻りました。



せっかく手術の予定を立てたのに・・・・・

私はどうなってしまうのだろう・・・・・?

輸血の同意書

予定日の前日 2000年 10月 16日。


担当のS先生が

明日の手術に関して

輸血の同意書にサインしてください、とやってきました。


前にも書きましたが、

私は自己血輸血をするため採血してきました。

この日、ちょうど2回目の採血を済ませ、

貯蓄している血は 800ミリリットルとなりました。


が。


私の場合(というか前置胎盤の場合)、

手術時に大量の出血が予想され、

自己血だけでは足りないかもしれないということで、

他からの輸血に関する同意書にサインをしておいてほしい、というのです。


同意書にサインすることより、

それほどまでに出血するものなのか? ということに不安になりました。


同意書には

・輸血の必要性

・副作用

・輸血方法

・輸血の検査

などが記されています。


一通り説明を受け、私と主人とサインしました。


さぁ、これで手術前にしておく準備は整いました。

いよいよ、明日が手術日です!

手術前の説明

手術予定日の前前日。

担当の看護士さんがやってきて

手術を受けるにあたっての説明をしてくれました。


それはプリントを使っての説明だったのですが、

ざーっと以下のような内容が書いてありました。



■必要なもの

バスタオル、タオル、ティッシュ、曲がるストロー、腹帯


■前日の準備

・剃毛(胸の下から恥骨あたりまで)

・抗生物質のアレルギーテストのために注射をする

・入浴、洗髪をし、身体を清潔にする(←私の場合は無し)

・パッチテスト

・午後9時以降、飲食禁止

・眠れないときは申し出る


■手術当日

・朝 浣腸をする(その日の状態によりけり)

・排尿をし、素肌に手術着を着る

・指輪などを外す(眼鏡、コンタクトも)


■手術後

・当日はベッド上で安静

・排ガスがあるまで陰極禁止

・尿道にカテーテルを入れる


などなどです。


転院前の産院で、カテーテルでいや~な思いをしてるので

最後の記述を見て、なんだか憂鬱な気分になりました。


中学生のとき、急性盲腸炎で即手術、

というのを経験してるのですが、

予定を立てて手術する場合ってこういう説明があるんですね。

初めて知りました。


でも、いよいよ直前に迫ってきたー、という感じがしてきました。

NICU見学

手術の予定が決まりました。

もう、後はカウントダウンです。


そんなある日。

主人がお見舞いにきた時間を見計らって

担当の看護士さんがNICUの見学に連れていってくれました。


私の赤ちゃんは早産になるし、

十中八九、低体重児だろうし、

場合によっては感染症などの疑いもあるため、

確実にNICUのお世話になるからです。


そのため、自分の赤ちゃんがどんなところにお世話になるのか、

見学しておきましょうとなったのです。


当時、私の入院していた大学病院は

産科とNICUが別の病棟になっていたため、

見学は車イスに乗って、2つくらい病棟を抜けて やっとNICUにたどり着きました。


NICUも面会は午後2時からです。

まず、中に入ると入室準備のスペースがあり、

NICUの中だけで使用する、小さめの車イスに乗り換えます。

(NICUの中は処狭しと保育器などがあるため、

小さめの車イスでないと動けないのです)


そして、ヒジの下までをイソジン消毒します。

割烹着のような白い服をきて、白い帽子をかぶり、

いよいよ NICUの中へ。


保育器の中には小さな赤ちゃんがいっぱいいました。

子供に会いにきている親御さんもいらっしゃって、

おむつを替えたり、ミルクをあげたり、

看護士さんに手伝ってもらいながらお世話をしてました。


そして、私の赤ちゃんの担当になる先生と看護士さんを紹介してもらいました。


お二人とも 「責任もってお世話しますから安心してくださいね」 と言ってくださり、とても優しそうな方々で安心しました。


こうして、見学会は終了。

短い時間でしたが、私にとっては産後の赤ちゃんのことで安心できる材料ができ、このようなことをしてもらったことはとても有りがたかったです。


心おきなく 出産できるぞ! と思えるようになりました。

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