友人の信仰(32) | 風の日は 風の中を

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~職場や学校で不安感に悩んでいる方へ~
「不安とともに生きる」森田理論をお伝えしたいと思いブログを書きはじめました。
2011年9月からは、日々感じたこと、心身の健康などをテーマに日記を綴っています。

カルトの罠に、犯罪者はひっかかりにくい、といわれる。
なぜだろうか。


カルトは物事をすべて極端な善悪に分ける。

絶対的な善と、絶対的な悪。


普通、人間は善を選ぶ気持ちをもっている。二者択一なら善を選ぶだろう。

犯罪を犯す人は(全員ではないが)悪と知りながら悪の道を選択をするところがある。

それゆえ「善か悪かの二元論で、かならず善をとる」パターンから外れるのである。


つまり、カルトの罠とは人間の「善でありたい」という気持ちに、しかけていくもの。

純粋で善良なタイプと思われる人々が、カルト教団に多く入信しているのは、まさに「善でありたい」という思いに基づいた行動の結果である。


医療によってたすかる可能性のある人の輸血を拒否したことで、問題視された宗教団体がある。

輸血拒否は教義上の理由あってのことだったのだが、「なぜ、救命の可能性を捨てるのか?」と一般の人々にとっては理解不能の事件とされた。


この場合、輸血を受ける事は絶対的な悪だったのだと思う。

この信仰の人にとって、追求すべき絶対的な善は、「神の王国でよみがえること」になっているので、それを阻むものは、命にかえても受け入れてはいけないのである。


また、統一教会の合同結婚式なども…信者でない人には、やっぱり理解不能。

しかし、信心を深めた人には、当然の選択みたいだ。

一般の結婚は罪だと、信者は心からそう思っているので、避けなければならない。

そして合同結婚式は、この上ない祝福である。

善を選びとりたいという願いをもつ者にとって、進むべき道はあらかじめ決まっているのだ…


友人のダンナさんから、統一教会からの脱会記録の本を借りたことを、すこし前の記事で書いた。

この本の中で、脱会にむけて大きく動いたのは信者の親族の方たちではあったが、後方支援者として「教団の社会的問題」「教義上の問題」を指摘する専門知識をもった方が重要な役割を担っていた。


この方々は救出カウンセラーとよばれ、牧師であることが多い。

(統一教会側からは「反牧」とよばれる)

信者側から、うらまれたり、教会側からは告訴されたりするリスクを背負って、この方たちはなぜ、ここまでできるのだろう。


これは、信仰をもたない者の見方かもしれないが、「宗教対決」という意味を含んでいると思う。

「正統は、異端を正し、救わなければ」という使命感。それが活動の原動力のような気がする。


自らが信じるものが正統で、それ以外は異端…。

日蓮が強くうち出した布教姿勢の背景にも、それがあった。


そして、私自身もまた「カルト=悪、脱会することが正しい道」という二元論の中にいた。


私は無信仰ゆえ、対抗できるものを持っていないから、ダメなのか?そう思いながらも、彼女の信仰に、反対、批判をし、何の影響もおよぼすことができないまま時間だけが過ぎていった。


彼女のダンナさんは、信仰に反対の立場ではあったが、「白か黒」二極しかないような考え方はしない人だった。

信仰を否定し、かたちだけ脱会させたところで、家族関係がこわれるのなら意味がない、と言われていた。

そういう人が夫だったから、彼女の家庭は続いている。

私も一応、友達関係を続けている。

ゴールデンウイークには久しぶりに彼女の家族に会いにいきます。