記事タイトルは、作家の林望さんが、おっしゃった言葉です。
林さんは、忙しい日常をわすれさせてくれる心ゆたかな空間が「句会という別世界」にあると、エッセイにかかれています。
アメーバの中にもあるのです!!句会という別世界が…
悠人 さん主宰のblog句会は月1回開催されています。
今回は、桜が季題。
現実の世界の桜が花散らしの雨にあい、見ごろを終えていく中…俳句で表現された桜が美しい「別世界」をみせてくれました。
選句が終わるまで、作者の名前は公表されません。
今回、わたしはblog句会に咲いた桜を楽しませていただく一方で、「この句の作者はきっと○○さん」と、なぜか予想できるところがありました。(普段はまったくそんなことはありません。カンも良くないです…)
そして、その予想はあたっていました!
うれしかったな~
こんな楽しみ方をしたのは私だけでしょうか。スミマセン・・・
今回、自分が投句したのは以下の二句です。
さくら舞う 小さき渦を 眺むる子
悠人さんから、この句について次のようなご指摘をいただきました。
①まず、桜の舞う小さな渦を見ている子がおり、②その子を見つめている作者がいる、という構成。
この構成の外側から、読者がまた句の光景を眺めるかたちになる。
第三者的な視点で対象を見つめる句は、景として弱くなる?・・・ということでした。
悠人さん、ありがとうございました。
構成について考えたこともなかったのですが、この句ができたとき、たしかに!私は「さくら」ではなく、「子ども」の様子のほうに心を奪われておりました。
この子は1歳。いとこの子どもです。
場所は動物園。親としては、ゾウやキリンをみせてあげたかったようなのですが、幼すぎて視野に入らないようでした。手に触れる距離にあるものには関心をしめしました。
小さなからだのすぐ隣でおこった「花びらの舞」には、幼いなりに心ひかれたのでしょうか。
からだの動きをとめて、いっしんに見つめるさまは可愛いものでした。
花あかり はぐれし人よ 今いずこ
川柳のような句ですが、この句ができるまで、たくさん涙を流しました。
そして句というかたちになったことで心が癒されたような気がします。
はぐれた人は私の実父。
2010年4月の桜が父との「最後のお花見」になりました。
一緒に食事をしたお店で会計をしている間に、ひとりだけ、いなくなってしまった父。
みんなで、さがしていると、桜の木の間から、照れ笑いしながら現れた姿…今も目に浮かびます。
この10か月後、父は亡くなってしまいました。もう、どこをさがしても父に会えない、という事実が悲しくて、昨年は父とはぐれた思い出の場所には行きませんでした。
1回忌が過ぎた今年は…悲しみの感情の裏には、じつは幸せも存在したのだということを感じています。
私は父にとって、よい娘ではなく親子関係は、よくなかったです。
父を思うたび涙を流すのは、「親孝行しなかったという後悔が大きいから?」と思っていたのですが…かけがえのない人だったから、失って悲しいんだと、今はそう思います。
もう遅いのですが、お父さんの娘でよかった、という気持ちで、今年の桜をみました。