人道支援も聞いて呆れる | 気になるニュースチェックします。

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日本人ジャーナリストの殺害警告、二人は危険を承知でシリアにむかったのかもしれないが
救出に全力を尽くしてほしいです。
安部首相は2億ドルは人道支援としていますが、その背景は本当に人道支援だけでしょうか。

イスラエルへの日本の急接近は国際的批判が強まっています。
イスラエルという国は、去年の夏パレスチナ自治区のガザへ軍事作戦を展開しました。
そのガザでは一般市民を含む2000人が死亡しました。
さらにパレスチナ人民地区での入植を強化しているといいます。

イスラエルといえば最大の同盟国が米国です。
こうした強硬イスラエルに日本政府は、主力戦闘機F35の共同開発参加を
2013年の3月に表明しているのです。

そして昨年5月にはイスラエルの首相が来日しました。
日本とイスラエルの防衛当局、交流の促進、国家安全保障局など協力で合意しました。
そして今回は安部首相がイスラエルを訪問したわけです。
今密接な関係にあるんですね、日本とイスラエルとは。

安部は中東の安定と平和のためにイスラエルに協力すると言っています。
けれどその中東の不安定の根源はイスラエルなのです。
そんな悪の根源になんで協力する必要があるのか。

だからこんな日本人ジャーナリストが拘束されるような事態になるんじゃない。
こんな事態になったのも安部政権が原因です。
日本人ジャーナリストの二人が殺されたら、安部政権を恨むといい。

確かに人道支援は素晴らしいことだけれど、その裏では何をやっていることやら。
世界が批判する世界の流れに逆行するようなことをしていて、人道支援も聞いて呆れる。




★新聞記者たちの証言 菅生事件

 それではいよいよ実際に事件の記事を書いた新聞記者たちの証言です。
 
 10月20日第19回公判から始まりました。
 証人は毎日新聞の支局長と記者4人それに西日本新聞記者の1人です。
 西日本新聞記者の有吉徹28は、事件を知った6月2の正午に現場にたどりついた。

 だから事件の模様をリアルタイムで知っていたのは、毎日新聞一紙だけということが
 裏付けられました。
 
 当時竹田通信部の記者だった和田武浩27は、
 「記事は私一人で書いたのではなく、現地にいた4人で書いたものです。
  活字などはくいちがいがあるかもしれませんが、記事としては責任がもてます。
  当時菅生村では農地問題や、それに関連する障害事件があり、警察官を取材していたら
  なんとなくありそうだと感じたので、大分支局長に連絡しました、6月1日のことです」

 現地ではどこにいたのか?
 
 「駐在所に行ってみましたが、なにも変わったことがないのでその付近にいました」

 何かを予期してそこに潜んでいたのではないか?

 「私は何も知らずに潜んでいました」

 事件が起きる前はなにを見たのか?
 
 「零時過ぎ熊本の方から一人が歩いて来て、門灯を消して何かを投げ込んだのです」

 門灯を消したときおかしいと思わなかったのか?

 「不思議には思いませんでした。
 巡査が帰ってきて門灯を消したと思ったのです」

 証人とその人の距離はどれくらいだったのか?
 
 「40メートルくらい離れていたと思います」

 投げ込むのを見たのか?
 
 「見ました、投げ込むと同時に爆破しました」

 続いて 早川弘カメラマン37の証言
 早川は菅生村に行った理由をこう語りました。
 「宮崎県に出張し、帰りに大分に立ち寄り竹田の岡城址の写真を撮るため見物して
  大分支局に戻ったら何かあるらしいということで、3人で行ったのです」

 現地にはどのようにしていったのか?

 「自動車で行きましたが、自動車を停車した所に別の自動車があり
  そこより歩いていきました」

 事件のときどこにいたのか?
 
 「駐在所付近の熊本寄りの国道の右側に、雑草のあったところです」

 事件が起きるのは駐在所だと聞いていたのか?

 「いいえ、なにか事件が起きれば駐在所に報告があると思っていたからです」

 事件当時の模様はどうか?

 「瞬間の出来事で、しかも私はちょうど後ろ向きになって放尿していたとき
  突然音がしたのです。
  びっくりしただけで見るひまはありませんでした。
  爆発後夢中で飛び出して、駆けまわったのでよく記憶していません。
  ただ警察官かどうかわからないが、10人くらいの人でごったがえしていました。」

 その日、現場に行くとき牛泥棒の検挙に行くというようなことは聞かなかったか?
 
 「そのようなことは全然聞きませんでした」
  
 この後前線でキャップを務めた三原嘉一郎38もあいまいに答えている。
 現場に来たのは何かあるということで来たと言い

 何かとはどんな事件と思ったか?

 「菅生村には思想的なことで、傷害事件が起こったりしていたので
  普通の事件ではないと思いました」
 
 そして特別弁護人都留忠久が新聞記事の矛盾点を投げかけた。
 
 記事にある当夜桑原警部が指揮していたということは、いつ知ったか?

 「実際に来ていたかどうかはしりません。
  彼もたぶん来ているだろうと思って、あとでそのように書いたものです」

 記事には(桑原指揮官のいらだたしさ、夜目にも伝わってくる。
 勘づいたかと低く呻いた。
 とたんに全体をゆすぶるような爆発音が起こった)とあるがこれはどうか?

 「私はちょうど放尿していたので、その時のことは知りません」

 早川と同様発生当時の模様の証言を避けています。
 傍聴席からはため息が漏れた。

 大戸巡査の妻語るの記事は誰が書いたのか?

 「わたしではありませんが、奥さんに 会ったらもう他の人に話たからと言うので
  私は別に何も聞きませんでした」

 この日最後に証言したのは、大分支局記者中路和也26です。
 中路もこれまでの4人と同様の証言をしています。
 「どんな事件が起きるかわからないが、雨中1時間以上も待機していた」
 と弁護人の質問をかわし続けた。

 そして清源弁護士は追及の手を緩めず、中路がたじたじになるほどだった。
 
 記事によると記者たちは、襲撃の最大目的が同村の駐在所であったと予想していた。
 そして20メートル先の目の前で爆弾を投げ込む犯人を見たとあるがどうか?

 「その部分の記事は事件後書いたもので、後から書く場合はそのようなことがあります」
 
 すると予想はしなかったのか?

 「はい、予想しなかったのです」

 するとこの記事は間違いなのか?

 「いいえ、駐在所襲撃の予想もありました」

 先ほどの証言とちがうではないか?

 「先ほどそのようなことは申していません」

 それならさきほどしゃべったことの調書を読み聞かそうか?

 結局中路は認めざるを得なくなった。
 
 大戸巡査の妻の談話で駐在所爆破をあらかじめ知っていたと話したのか?

 「その通りです。
  ただし、記事として形容的な部分もあり当時双方とも相当な興奮状態に
  あったことも事実です」

 1955年4月1日大分地方裁判所で検察官富田正夫が求刑を読み上げた。
 「本件は組織的計画的暴力事犯で、治安維持上もっとも憂慮すべき
  悪性をはらんでいる」
  
 後藤秀生に懲役15年、坂本久夫に懲役12年、後藤守と阿部定光に懲役5年
 藤井満に懲役1年


 藤井満は山村工作隊のメンバーとして1951年12月に秀生の元に来た少年です。
 当時夜警と称して村内を徘徊する松井一派との間で、小競り合いが繰り返されていた。
 そんな些細なことで検察は藤井を検挙していたのです。

 怒った山下昇弁護士は
「本件は起訴するほどのものでもないのに、被告人が共産党員だという理由で起訴された。
 いずれも誰が殴ったか、誰が脅迫したかさらに果たして牛を盗んで食ったかどうかも
 わからない事件で起訴されている。
 疑わしきは罰せずであり、無罪を主張する」

 2か月後藤井を除く4人が出廷して最終弁論が行われた。
 当時の状況を立証するために必要だとして、清源弁護士は次の3人の証人の申請を要求した。
 
 ○桑原唯七警部  事件当時の国警
 ○松井製材所社長 松井波津生、市木春秋の素性を知っている。
 ○市木春秋    事件後行方不明

 しかし臼杵裁判長はこれを却下

 怒った後藤秀生が異議を申したてた。
 「桑原は現地で総指揮にあたっていた者で、捜査目的や事情を十分把握しており
  市木の動向も知っている重要人物である。
  松井は我々の土地解放民主化運動を暴力によって、鎮圧しようと市木をスパイとして
  連れてきて我々と接触させ、市木に暴力活動をさせてそれを我々共産党員の
  仕業とみせかけた。
  市木の素性や事件までの状況を知っている重要証人である。
  市木は本件の謎の人物である。
  事件当時市木からポスターカラーをもらった事実があり、駐在所爆破について
  重要証人である。
  よって3人の取り調べをなさずして、裁判をすることは公平な裁判とは言えない」

 しかしこれもあえなく却下されてしまう。
 すると阿部定光らが立ち上がって、
 「裁判官全員を忌避する」
 と叫んだ。