『功名が辻 第49回(最終回)』の感想 | まんが栄養素

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ということで、

 

新大河ドラマ『功名が辻』

 

の49回目を見ました。 最終回です。

 

1603年、河中山城。

前回のラストで倒れてしまった山内一豊(上川隆也)を介抱する千代(仲間由紀恵)。

一豊の病気は脳卒中のようで左手が麻痺したようだ。

そこに、祖父江新右衛門(前田吟)の次男の祖父江徳心斎(吉本新乃輔)が現われる。

昔はやんちゃ坊主で武士にはなりたからず、立派な医者になったようだ。

そして、徳心斎は脈をみて脳卒中と判断し、体を動かすよう言う。

一豊は体が治らないと聞くとガッカリするが、

 

徳心斎  「これ以上悪くおなりにならないようにする手立てはございます」

      「殿様、医者は直ろうとする病人の手助けをするだけでございます」

      「殿様が自ら直ろうとなさらねば、どのような良薬も効きません」

      「寿命はご自分でお守りくださりませ」

 

と、千代だけでなく、最初から見てきた視聴者は驚いたはずだ。

そして、場面が変わり、山内康豊(玉木宏)と五藤吉蔵(小倉久寛)が、

祖父江徳心斎に本当の容体を聞き、改めて徳川家との繋がりを重視することとなる。

 

場面は変わり、1603年7月大阪城。

千姫と豊臣秀頼の婚儀が行われ、一豊・千代も大阪城に来る。

その一豊・千代は寧々(浅野ゆう子)を訪れる。

寧々はこの婚儀は戦の始まりかもしれないと言い、

さらに一豊にもまだ戦乱が終わっていないから死んではいけないと言う。

 

場面は土佐。

堀尾茂助(生瀬勝久)が山内家を訪れる。

堀尾は『米子の中村家の様子がおかしく、自分に兵を貸してくれと頼んでくる』と話し、

『友情のために中村家のために一緒に兵を出さないか』と持ちかけてくる。

千代は『土佐をやっと治め平和がきたのに!』とすぐに反対し、

その姿を見た堀尾はすぐに引き下がる。

なんでも、堀尾家はこの後、中村家に兵を出したようで、お家取り壊しとなったようだ。

 

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1605年4月、二条城。

徳川家康(西田敏行)は、将軍職を次男・徳川秀忠(中村梅雀)に譲る。

このことにより、これからもずっと徳川家に天下があることを証明した。

その秀忠は声を震わせながらも、将軍就任の挨拶をする。

 

その後、一豊は家康に呼ばれる。

家康は跡継ぎの嫁の件のことで、家康の養女・熊姫(?)をいつでも嫁にして欲しいと言う。

さらに、一豊に豊臣秀頼のことを突然聞き、一豊を動揺させる。

家康は、遠回しに豊臣家を滅ぼすことを一豊に言う。

 

場面は変わり、土佐・河中山城。

一豊は家臣団を集め、熊姫と山内忠義の婚儀が来年行われることを言い、

そして、一豊は「豊臣家と縁を切る」と言い、豊臣家の忠誠はあるが徳川の世となった今は、

豊臣家は消えていく定めだと思う、と言い、

 

一豊 「山内家は消えていく豊臣家と今こそ袂を別つ」

    「いずれ徳川家と豊臣家の間で最後の戦があろう」

    「そのときは康豊、忠義、迷うことなく徳川様に従え!!」

    「皆のもの、よいな!」

 

と言い終わった瞬間、倒れてしまう。

一豊はなんとか気が付き、千代に『遺言』の内容の評価を聞く。

一豊は千代に家康の真意を話す。 千代はそんなことより『生きてください』と頼む。

そして、今までの回想シーンが描かれる。

桶狭間での織田信長(舘ひろし)とのやり取り、顔を矢で射られたシーン、そして関ヶ原・・・、

一豊は千代と出会った事が開運の始まりと言うと、千代との回想シーンが描かれる。

一豊は千代に抱きかかえられながら、意識を失っていく。

そして『喉が渇いた』と言うと千代は口移しで水を飲ませようとする。

しかし、一豊は意識を完全に失い、そのまま帰らぬ人となってしまう。

 

このキスシーンだが、仲間由紀恵さんの『このドラマにはキスシーンはないのですか?』

という言葉から、発生したイベントらしい。 脚本家が仲間さんよりこの言葉を聞いて、

ずっと心の中に残っていたものを最後で描いたらしいです。

 

千代は、息子・湘南宗化(三浦春馬)が拝む前で、髪を下ろし、見性院と名乗ることとなる。

そして、翌年には、千代は土佐をさり京に住むこととなった。

寧々とのやり取りは続いているようで、千代は新しい情報を手に入れる。

徳川家が豊臣家を追い詰めている、という話。

 

その頃、大阪城。

淀君(永作博美)と大蔵卿局(山村美智)の会話が始まる。

家康より『京都の大仏を再建せよ』との書状を受け付けるも、

前田利長へ徳川成敗の書状を送るという策略に出る。

 

その後の伏見城。

徳川家康(西田敏行)と本多正純(天宮良)の会話が始まる。

前田利長は淀君の誘いを断ったようで、これを機に京に上ることを決める。

そして、秀頼に上京することを命じ、もし応じなければ戦を起こすと伝えるよう正純に言う。

さらに、この内容を寧々にも伝えるように言う。

 

千代は寧々に呼ばれダッシュで訪れると、寧々は千代に淀君の説得を頼む。
寧々はさすがに豊臣家を滅ばされるのは回避したいようだ。

 

場面は変わり、大阪城。

淀君(永作博美)は寧々からの手紙を読んで怒るが、千代は淀君を説得する。

淀君は千代に「山内家は豊臣のために戦をするのか?」と尋ねるが、
 

千代 「亡き夫・土佐守の遺言により、未来永劫、山内家は徳川家の家臣でございます」

 

と言いつつも、秀頼を守るための選択をしてほしいと、頼む。

淀君は説得に応じ、秀頼の上洛を許すこととなった。

 

 

1611年、二条城。

徳川家康(西田敏行)は豊臣秀頼(石黒秀雄)の成長をみて驚く。

一説には、このとき、秀頼より王者の風格を感じて、今すぐにも滅ぼす決心をしたらしい。

(劇中では嫉妬という表現であった)

 

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それから3年後。

いと(三原じゅん子)ととし(乙葉)の井戸端会議メンバーが久しぶりに登場。

それぞれの夫はすでに亡くなっているようで、全員尼になっている。

豊臣家の将来を心配する3人であった。

 

そして、大阪冬の陣・夏の陣が始まる。

場面は戦のラストシーン、城を攻められ、自殺を図ろうとしている。

しかし、淀君は自殺することを拒み続けるが、大野治長が淀君を刺して、

秀頼以下家臣団は爆薬により自殺することになった。

 

寧々と千代は大阪城の落城を悲しむ。

寧々は始めて千代に嫉妬する台詞を言い、戦が無い世の中を歓迎する。

 


場面は大きく変わり、1年後の駿府城。

家康は病の床につき、今にも死にそうな状態であった。

秀忠に戦国時代に幕を閉じるように言うと、家康は75歳で息を引き取る。

 

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千代は乱世の世を見届けたことにより、戦場で死んでいった者たちの魂を

供養する旅に出ることを決意する。

その回想シーンで、幼少の千代と一豊との出会いのシーンが、

『上川隆也×仲間由紀恵』で描かれる(笑)。

何のサービスなのだろうか?

 

そして最後は二人ともに若返り、二人で歩いていくシーンで終了。

 

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千代(見性院)

出自は諸説あり、浅井氏家臣の若宮喜助友興の子とも、美濃の郡上八幡城主の東家系・遠藤氏(東家先祖は和歌家)の遠藤盛数の子とも言われてきた。しかし、最近は遠藤盛数の子説が有力になってきている。

父が遠藤盛数(1562年死去)とすれば、母は東常慶の娘で、兄は後に八幡藩主になる遠藤慶隆。 しかし、千代(まつ)の幼時は戦に明け暮れる日々で、母(1582年死去)とともにあちらこちらの家を転々としていたらしい。

山内家には「東常縁筆古今集」はじめ、東家から伝わる貴重な古今集がいくつかあった。これらは見性院が京都にも携えてきて愛用した和歌集だったが、死去に当たり、養子の土佐藩主山内忠義に形見として渡すよう、育て子の湘南宗化を通じて遺言したものである。また見性院が、遠藤盛数の孫遠藤安右衛門亮胤を山内家に仕官させるよう言い残したことも、遠藤盛数の子説の根拠である。

 

嫁入りの持参金、または臍繰りで名馬を購入した話や、俎板代わりに枡を裏返して使い倹約した話など、「内助の功」で夫を支えたエピソードで有名である。歴史上においては、関ヶ原の戦いの前哨戦において三成挙兵を伝えた「笠の緒の密書」が有名である。

千代紙の命名の由来ともされている。これらの話は、江戸時代中期の新井白石の『藩瀚譜』や室鳩巣の『鳩巣小説』などから人口に膾炙したものであるが、真偽については必ずしも詳らかではない。

一豊と千代のエピソードは、戦前においては賢妻のモデルとして多く取り上げられた。戦後では小説やドラマの題材となっている。

 

山内一豊との間には娘(与祢姫)が一人生まれたが、天災(天正大地震)により幼くして失い、それ以降は子供には恵まれていない。なお育て子として、「拾」のちの妙心寺住職の湘南宗化がいる。この拾は、与祢姫の供養のための妙心寺参りの門前あるいは山内家の京都屋敷で見性院に拾われたとの言い伝えがある。

山内一豊は弟山内康豊の子忠義を土佐山内家跡目養子にしていた。見性院は夫一豊が1605年秋に亡くなると、康豊に忠義を後見させて半年後には土佐を引き払ってしまい、湘南宗化のいる妙心寺近くに移り住んで余生を京都で過ごした。

1617年(元和3年)京都で死去。墓所は高知県高知市の山内家墓所。京都妙心寺にも山内一豊夫妻の廟所がある。

 

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【総評】

今回で最終回です。

原作とは違う面白さを持った作品でした(^^ゞ。

最初の頃は、役者さんの年齢の高さが気になってしょうがなかったですが、

役柄と役者さんの年齢が相応になっていくにつれ、どんどん面白くなっていきました。

 

この大河ドラマの面白かった理由は、無理に一豊・千代で物語を作らず、

『信長』・『秀吉』・『家康』・『光秀』・『三成』など時代の権力者を主役として描いたからだと思います。

その分、中盤まで一豊の存在感が薄れてしまいましたが、

関ヶ原より主役の存在感を出すことに成功し、一気に面白くなりました。

 

1年間、書き続けてきた感想というかあらすじはこれで終了です。

ここまで、お付き合い有難うございましたm(_ _)m。

次の大河も面白そうなので、元気があればこういう形で続けていくかもしれません。

そのときはまたよろしくお願い致します。

 

 

では、ここまで。

 

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