「愛国」という病、あるいはトラウマ | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 本日は、被爆70年の広島で反戦・反原発デモに参加してきました。ここ数年、毎年ですが、今年は、デモの街の人々の受け入れられ方が格段に上がった、飛び入りも多数あり、そういう時代に入ったな、と実感できました。

 一方、この大衆的な盛り上がりが、この先、どこに向かうのか重要な分岐点、というか、ある種の不安と不気味さを感じ、自分の主体的な言動の責任を意識します。

 簡単に言うと、「反戦愛国」みたいな中途半場なキブンの蔓延への危惧です。

 「反戦のデモに立ち上がっているのは日本の未来を考えている愛国青年だ」みたいな、ちょっと気持ちが悪い感じへの「賞賛」。「今の天皇は反戦だ」みたいのも含めて、「自民党にも反戦の議員がいる」とか、だから何なんだ?と思います。

 私たちが何を選ぶか、自分はどうするか、であって、有名な「エライ人」のその時勢の言動で判断することではないのでは?と思います。

 とりわけ、「国家はあって当たり前」「国民は愛国で当たり前」「資本主義体制内で考えるのが常識」みたいな限定された範囲の、つまり「不自由な」発想の中で「反戦」が唱えられてないか、ということです。

 もっと自由でいいと思うし、マスコミや一部の学者の言説から解き放たれれば、もっと、もっと自由で豊かな思想と発想の歴史の蓄積を私たちは持っているはずです。

 ナショナリズム=愛国への誘惑は、とても強い脅威です。でも、愛国じゃなくたっていいんじゃないの?自由な人は、国を愛さなくたっていいのです。「愛国」から自由になりましょう。


 「愛国」は気持ち悪いよ。ともかく、「国」とか「日本」とかよくわからないから。みんな、そう思っているのかもしれないけど、子どもの入学式・卒業式でテキトーにであれ「君が代」歌っちゃう感じが気持ち悪い、全体主義っぽい。あとで「まあ、本心はそうでなかったんだどさ」って言い訳しそうな。

 国を愛するより、人を愛する方がいい、もちろん、人を理解するのもたやすくない。だけど、人はそこにいるし、話せる、でも、「国」って誰だよ?

 ・・・なんて思います。「反戦愛国」的な中途半場な、つまり、階級協調的ないわゆる「日和見主義」は、あっという間に祖国防衛で一致してきたのが歴史。

 反戦とは、国際連帯だし、革命的祖国敗北主義のように戦争しようとする自国の政府を打倒して戦争をやめさせることです。

 「国」なんてどうでもいい。そんなものに囚われず、人を愛する世界を作ろう。原爆を落としたのは、「国」の抗争が原因だけど、落とされたのは「人」です。そんな世界はいやですよね。人が主人公の世界を目指しましょう!