教育 父の背中というけれど・・・ | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 学校、ましてや国家権力に、子ども教育を任せっぱなしはよくない、と思いつつ、具体的に、自分の子どもに何かを教えるというのは難しいです。
 だいたい、自分の親なんて、反発・反抗の対象だしね。まあ、最初の「権力」?

 自分のことを思い返しても、10代で父親と話したことなんて、ほとんどないような・・・。まあ、何か言われた憶えもほとんどないし、こちらから要望したこともない・・・これが父と息子のスタンダードな10代でしょうね。

 特殊な記憶として覚えているのは、高二から高三になる春頃、父親が『昭和人権史の証言』(時事通信社)という本を出して、何気なく、それを読んでみたところ(はっきり言って歴史の知識も乏しくよくわからなかったのだけど)、なんというか打ちのめされて・・・(ああ、参ったなあ、なんかスゴイな父ちゃん)みたいな想いに、ダメダメな高校3年生の春、落とし込まれた、そんな夜があったのは覚えています。

 ま、というわけで、子どもが父親に何らかの反抗心を持つのは、むしろ正常で、そうでないと、むしろダメじゃん、とすら思います。

 だいだい「教育」というのは、はっきり言ってしまえば、支配側にとっては「洗脳」であり、国家権力は決して手放したくない、むしろ、がっちり掴んでおきたいところであります。第一次安倍内閣において教育基本法に手をつけたのも、そういう権力的志向の現れでしょう。

 では、さて、どうやって、私的に、親父どもは子どもに独自の教育をすべきなのか、できるのか? これは、ホント、難しいなあ、と思います。まあ、やるべきことをやって、その背中を見せる、ということなのかもしれませんけど、セオリー通り。

 私の場合・・・20代になり、父親への反抗としての「司法試験」克服という気持ちもあった、受かった上でやりたいことやってやろう、父親という権威に対抗してやろうみたいな気持ちもあったような気もします。
 しかし、いざ、司法試験が終わり、修習生になる頃、だんだんわかったのは、自分の父親(金寿)は、これまで、ずっと権力と闘い続けてきたのだな、という改めての認識でした。
 
 ということで、私の「反抗期」は、その頃終わり、父と一緒に闘うことにした次第。

 こう思うと、私はまんまと父に「教育」されちゃったのかなあ、と思ったりします。なんも考えてなかったようなきらいもありますが・・。具体的には、いろいろ反発したんですけどね、これでも♪

 今、高校生の息子が何を考えているかよくわかりません、正直。この時代の感性というのはあるのでしょう。癇に障ることもあります(!)が、ともかくは、こちらはこちらでやるべきことをやっていくのが私的な教育、と思って精進します。