教育について(3)師の条件のパラドックス | メタメタの日

教育について(3)師の条件のパラドックス


mixi「背理・逆説・パラドックス」コミュで、「師弟関係」について、内田樹『下流志向』から次の箇所を引用した。
「『師であることの条件』は『師を持っている』ことです。
人の師たることのできる唯一の条件はそのひともまた誰かの弟子であったことがあるということです。」(178ページ)


『下流志向』の教育についての議論は、諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』に啓発されたものであると書かれています。『下流志向』と『オレ様化する子どもたち』は、いま教育について考える上で外せない本だと思うのですが、アマゾンの(多分)若い読者のコメントに、昔からよくある近頃のワカイモンハ議論と同じだ、と書かれているのは、さびしい。


 さて、上の引用に対して、次のようなコメントが付いた。

「となると,「師」と呼ばれる人の「師」と呼ばれる人の「師」…と遡っていけば,いつかは果てが来ますね.そして,果ての人の「師」が存在しないのであれば,その人は「師」では無いという事になります.
つまり,何者も「師」とはなりえない,という事ですね!」(@そうり)


 この論理は、落語の「最初の仏」についてガキが尋ねる話だと同じだな、と思って、検索したら、この落語の元ネタは、『徒然草』(@吉田兼好)だった。

 徒然草の最後の段(第243段)で兼好は、自分は8歳の時に気が付いていたと、次のように自慢しています。

 八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教へによりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや涌きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。


 賢しらな嫌味なガキであり、それを長じて、242段書き連ねたエッセー集の最後に置くなど、兼好は、ガキの屁理屈から進歩しそこなった面も残しているようだ。

@そうりとは違って、@吉田兼好は、すべての仏が存在しないとは明言していないが、700年の時を超えて、兼好法師に反論しておこう。


成仏の条件=仏に教えられること(@兼好の父)
すると、「最初の仏」は存在しない。
なぜなら、成仏の条件より、最初の仏を教えた先行する仏が存在するはずだから。
しかし、このこと(最初の仏が存在しないこと)は、一切の仏が存在しないことの証明にはならない。
たとえば、最大の素数が存在しないことが、素数が存在しないことを証明しないように。


 どうだ、兼好!と見得を切りたいところだが、しかし、以上の議論は、「悟性の論理」を「悟性の論理」で反駁しているだけだ。

 仏教の議論としては、「仏が先か、法が先か」という、信の本質に迫る議論がある(@松本史朗)。(つづく、乞うご期待)