ボランティアの素晴らしさと限界 | 理恵ごのみ

ボランティアの素晴らしさと限界

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 ボランティア精神っていうのは、とっても素晴らしいし素敵なことだと思いますけれども、それに対してしっかりと時間を掛けて行動するとなると、対価がない活動は人が集まりづらいし、長続きもしづらいんですよね。
 結局は、ボランティアの無資格で介護をしている人に比べると、きちんとした講習を受けてスキルを身に着けた上で、お仕事として介護をしている人の方が、モチベーションだって高い人が多いでしょう。

「お金をもらっているんだから、これが仕事なんだから、顧客満足を」

 っていう思考になりますよね。
 だって、背に腹は代えられないんですもん。
 ぶっちゃけお金がなければ、愛だって破綻するんですから。人間として最低限の文化的な生活が送れて初めて、愛だの恋だのってなるわけなので、ボランティアを本格的にするとなったって何らかの基盤がないとダメなわけです。だから、NPO法人を組織するわけですよね。非営利だとしても、寄付金や何らかを運営したことの収益などから、スタッフにお金が支払われるんですから。

 MtFにはコミュニケーションを取ることが苦手な人が一般の人に比べて多いって話題から派生したお話なんですが、そもそもなんでこんなことを書いているのかというと、5月30日の木曜日のことでした。
 いつもの木曜日の家政婦先に徒歩で行き、お仕事を終えると、やっぱり徒歩で帰宅しました。片道40分なんですが、帰りは途中のスーパーを少し見ていくっていう楽しみもあるんですけれど、そのスーパーを出たところで声を掛けられたんです。

『身体障害者をサポートする、ボランティア活動に興味はありませんか?』

 って。
 50代くらいの女性二人組でした。
 実際に、興味はあります。そして、ホームヘルパー2級の講習では、同時に障害者ヘルパー2級の講習もあったので、同時にその二つの認定はもらっています。だから、しようと思えば習った範囲でのアドバンテージはありますから、即戦力とまではいかなくても、まあまあ動くことはできるでしょう。
 でも、私にはボランティアでガッツリと活動するだけの生活的な余裕はありません。それでなくとも、GID当事者やその家族に対する、個人的なボランティアもほそぼそながらしているわけですから。

 で、断りますよね。
 そしたら、その人がなんて言ったと思いますか?

『自分だけ良ければそれでいいって考えなんですね、あなたは。困っている人がたくさんいるのに、それを支えることもせず、自分の利益を優先する人なんですね』

 みたいなことをね、言われちゃったんですよ。
 売り言葉に買い言葉になっちゃうんですけれども、私はこう答えました。

『ヘルパー2級の認定をもらっています。それを活かして、家政婦の仕事をしています。そして私には家事という主婦業もあります。家の中での生活を円滑に行えるように維持することも、私にとっては大切な仕事です。それ以外にも私を必要としている方への手を差し伸べることもしています。ですから、これ以上のボランティアは自分の生活そのものを切り崩して行わなければならないので、興味はあっても活動することはできません』

 変なことは言ってないと思うんです。
 ボランティアをすることは、もちろん素晴らしいんです。素敵なことです。
 けれどもそれを強制したり、ましてや自分や家族の日常生活に影響を与えてしまう次元で行うことは、果たして綺麗な気持ちのボランティアなのか?っていう疑いがあります。

『私はこれだけ苦労して、良いことをしているの。素晴らしい人間でしょ?』

 っていう気持ちが一瞬でもよぎったら、それはもうボランティアを利用した自己満足でしかありません。気持ちの天秤が、ボランティアを必要としている人にではなく、ボランティアをしているという自分に傾いているわけですから、障害がある人を利用して自分に酔っている卑怯者になってしまいます。

 だから、ボランティアには限界があるんです。
 会社でもNPOでも、活動したことに対する報酬がお金という形で存在しない限りは、よほどの聖者でなければ無理なんです。

 私に声を掛けた人が、実際にどのようなボランティア活動をしているのかは知りませんが、それを断られたからと言って相手を見下すような発言をする程度の人間に、一体どれだけのボランティア精神があるんでしょうね。