ある記録と記憶 | メメントCの世界

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演劇ユニット「メメントC」の活動・公演情報をお知らせしています。

今年も初台の正春寺で大逆事件集会がありました。

昨年は椿組の堀田善衛、その前はインフルエンザと、三年ぶりでした。

年末、ばたばたしていたら大逆事件ニュースの締め切りで行き違いがあって、ニュースに原稿が載らなかったで、配布しましたが、

貰わない方もいたので掲示します。

昨年の2月に戯曲集の後書きを書いた時にまとめ、お知らせするべき人には御報せした古いたものです。

大逆事件顕彰関係のコアな話題ですので、関係ない人はスルーしてください。

 

ある記録と記憶

                 メメントC 嶽本あゆ美

 

二〇一九年三月にハーベスト社より戯曲集『太平洋食堂』を出版した。

「太平洋食堂」「彼の僧の娘」二編を収録した。出版をお引き受け頂いた小林達也社長は、残念なことに二〇一九年十月に脳梗塞で急逝された。社会学や宗教学の本を地道に発刊されていた。戯曲集というニーズの少ない本を作って頂いた時に、「出すべき本だ」と力強く言って下さったことなど、いくら感謝しても足りない。ご冥福を心よりお祈りする。そして解説の成田龍一氏をはじめ、出版を応援下さった方々に心より感謝する。

 

その戯曲集の後書きでも触れたことでもあるが、高木顕明顕彰のある記録について、この場を借りて訂正したい。

泉惠機著「高木顕明に関する研究―資料及び略年譜について―」(一九九七年三月大谷大学真宗総合研究所発行『真宗総合研究所研究紀要』十四号一〇六頁)同論文は、藤林深諦による復命書の写しが初めて活字として掲載された論文であり、巻末に高木顕明の年譜、及び関連資料のまとめがあり高木顕明研究の基盤となるものである。また『高木顕明の事績に学ぶ学習資料集』(東本願寺出版)にも泉氏の顕明研究が転載されている。訂正を要するのは前述の論文の文末、高木顕明の養女の事件後の消息として「高木加代子は看取る家族親族なく、天理教の人々によって葬儀が行われた」という一文である。  そしてまた三方原墓園納骨堂の一角から発見された高木家の墓の竿石の「無縁仏」の逸話は顕明を語る時に必ず発信され、遺家族の苦難の歴史として受容されてきた。

 

私は二〇一六年に戯曲「彼の僧の娘―高代覚書」を執筆した際、遺族のお一人から直接に問題提起を受けた。とりわけ顕明養女の高木加代子が「看取る家族親族なく亡くなった」とすることは事実に反し、取材で明らかになった加代子の晩年像と異なっている。私は劇作家の立場で、加代子の人生を辿り続けたが、上演のたびにこれまでの顕彰で語られたイメージとのズレは大きくなる一方だった。

二〇十六年の十二月以降、それらを検証する為にあらためて泉惠機氏から聞取りを行い、提供された研究資料、研究ノートを精査した。(~二〇一八年六月)その結果、細かな「取り違え」を二十二年ぶりに発見することとなった。

 

泉氏によるワープロ書きの記録によれば、泉氏と当時の同和推進本部のメンバーらが何度も静岡県浜松市の墓地を探索し、一九九六年一月二十八日、三方原霊園の納骨堂横で高木家の墓石を発見した経緯が確認できる。一行は竿石に刻まれた「高木家先祖代々の墓」の文字を見て顕明師への想いがこみ上げ、万感迫り読経したとある。またその帰路、泉氏たちは浜松市内で偶然、高木加代子周辺の人々に辿り着きその消息を訪ねている。その一人、加代子の親類でもある鈴木綾子氏からの聞取り内容は以下となっている。(鈴木綾子氏は加代子の従姉妹にあたる)

 

鈴木綾子談「(加代子さんは)二十年ほど前に七十二歳で亡くなった。二月の寒い時期で、身寄りがなく、隣保でお葬式を出した。火葬場の近くに墓があったが、その後、袋井市(実際は磐田市)の市営墓地に天理教が墓ごともっていって、今はそこに墓がある。」

 

その後にも数回、泉氏は元浜町を再訪し、他の高代分教会会員や近所の人々に聞取りを行った。死後二十年経って唐突に訪れた大谷派の僧侶である泉氏に、「今頃、本願寺さんがねー。天理教はそんなことはしませんよ。」と加代子の苦労を知る人々から発せられた強い言葉が、強烈な負い目として記されている。この一連のやりとりなどは様々な泉氏の講演録などからも確認できる。泉氏はその後、加代子についての聞取りを天理大学の池田士郎教授に委ねている。

これらの記録を整理し、二〇一九年二月に三方原霊園での竿石発見時の写真と合わせて、東京の遺族に見て頂いた。以下はその際の遺族の談である。

 

「祖母(加代子)が亡くなる時、親戚も一緒に見守っていて、『加代ちゃん、まだ行っちゃいかんよー。』と言うと、祖母は一度目を大きく開き、満足そうに周囲を見回して亡くなった。その後の祖母の葬儀には、天理の本山から雅楽隊が来た。また父(義雄氏)の会社の社員も皆、弔問に訪れて盛大な葬儀を営んだ。なぜ鈴木綾子さんがそのような証言をしたのかは今となっては分からないが、それは曾祖母の杉原みちが死んだ時のことと取り違えて証言したか、あるいは聞いたのではないだろうか。「高木家の墓」は祖母の死後に高代分教会奥津城に改葬された。この三方原霊園の写真の中で高木家代々の墓の手前にある竿石の「杉」の字は『杉原みち刀自の墓』の竿石であろう。幼い頃から、「これは誰のお墓なん?」と聴いても教えて貰えなかった墓である。高木家の墓と並び立っていた墓の文字であることを覚えている。」

 

杉原みちは加代子の実母であり、加代子の天理教入信のきっかけにもなっている。遺族の確認作業への協力により、長い年月を経て様々な事象の因果関係が明らかになりつつある。そして大きな疑問であった「看取る家族親族なく」という泉論文の言葉が、何故現れたのかがようやくはっきりした。またこれらの「瑕疵」が顕彰の過程の行き違いで起きたことも遺族に理解された。以上の資料の解析には大正大学大学院の福井敬氏の協力が大きく感謝したい。そして、行き違いをここに発表することで私の責務は終えたと考えたい。

 

以上のことはひょっとしたら顕彰第一世代の人々にとっては旧知の事実かもしれないが、後から追いかける世代の私にとっては、一つの大きな謎であり、遺族の声を直に聴く中で割り切れないものとなった。実のところ泉氏は過去にこの記述が間違いであると認め、遺族の和装会社会報に謝罪を掲載している。しかしながら二〇一四年、二〇一五年の泉氏の講演では「古い記憶」が再び「無縁仏」として語られ記録されて、遺族にとって新たな痛みとなった。南御堂会館での「太平洋食堂」公演でのアフタートークの際にお会いした遺族の方の複雑な表情を、その時に推し量れなかったことが悔やまれてならない。

 

 これらを今、振り返ってみても、顕彰の主体は誰なのか、運動であるべきなのか、検証作業であるべきなのか、何に向かって行くべきなのか、はっきりと答えは出ないが、少なくとも組織の目的に資することではないはずだ。そしてまた、私が上演した「彼の僧の娘―高代覚書」は、それ単体では加代子氏の生き方に一種の驚きを呼んでも、無念の死を遂げた非戦の僧・高木顕明と合わせて「感動物語」として消費されていく流れを変えることはできなかった。私は誰かのカタルシスの為に加代子を題材に演劇を作った訳ではない。大きな括りの中で、個人個人の生を具体的に浮かびあがらせたいと思い、演劇と言う形で表現をしたが、場合によっては数あるコンテンツの一つとして運用されてしまう。

ある意味、それは自分の力不足でもある。上演の枠組みをどのように呈示するのか、表現者として私の今後の大きな課題となっている。

そしてまた情報の一人歩きや表現の難しさについても改めて考えさせられる。論文や情報が転載されるうちに、トリミングされ、あやふやな伝聞の伝聞がネット空間では「資料」の様に読まれる事さえある。それもイタチごっこのように、違うものは違うと発信するしかない。

その後、二〇一九年六月二十四日に介護施設を訪問した際、泉氏は既に病により過去の記憶の多くを失われていた。遺族からの言葉を伝えると、泉氏は高木顕明とはどのような人かと問い、大逆事件と顕明の擯斥処分について説明するとこの様に言われた。

 

「その様な人が居たのなら、僕なら必ず取り返さなければならないと思う」

 

顕彰の第一世代である先達たちと後続の私の間には埋めがたい差がある。その差とは知識だけではなく「想い」や「姿勢」かもしれない。直接、遺家族の声を聴き、再審裁判や名誉回復に関わってきた重みによるものだろう。言うなれば「組織や自分の何かの為に顕彰をしているわけではない」ということに尽きる。

泉氏自身は著作を書籍の形で残されなかった。後続研究者は泉氏だけでなく、先達である伊串氏、高木道明氏などの研究成果の大きな恩恵を受けている。顕彰に尽力された泉氏の論文について正すことは大変心苦しいが、より良い形でバトンが受け継がれることを願う。                       

 

二〇一九年十二月

 

追記1

2021年、加代子さんのお孫さんと連絡をとると、三方原墓園の納骨堂に近い、竿石置場には、確かに、「故杉原みち刀自の墓」の竿石もあったそうです。直接、確認されたということをご報告します。勿論、お骨は、髙木家奥津城にあります。

加代子さんの実母の杉原みちさんが大陸に渡られ、天理に入信し戻られた波乱の人生もまた、明治、大正、昭和の激動を生きた一人の女性の足跡です。

 

追記2

2021年6月 三方原墓園にて25年前と同じ場所に何も変わらずに竿石はありました。

周りの皆様、大変、無遠慮にお邪魔致しました。

御神楽歌を歌い、お水を供えて、ここで出会えたことに感謝申し上げました。

静かに風が吹いていました。