ネイプリー婦人会の女たち | メメントCの世界

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演劇ユニット「メメントC」の活動・公演情報をお知らせしています。

ネイプリー婦人会の女たち

 

かつて、日本のどこにでも婦人会というものがあったような気する。

PTAに似ていますが、婦人が集まって、余暇?に、趣味や勉強や生活の向上について、

活動する会です。私が子供の頃、1970年代には、母たちは確かに、公会堂に集まっては、生け花の稽古、お茶、日本舞踊、お祭りが近ければ、三味線、太鼓などを子どもも参加して学習???していました。旧き良き時代の中間層がマジョリティーだったころ、戦後の高度経済成長の恩恵が篤かった頃の話です。

新潟市秋葉区のミュージカルを創った時には、元国鉄関係者が家族ぐるみの共同体だったことを知りました。

やはり、婦人部の活動は多岐にわたり生活の全てが団体行動??だったと伺いました。

地方社会には、まだそういう名残が残っていますが、都会はどうなんでしょうか?

コミュニティがすっかり形骸化して、人間関係が希薄になった昨今には、ただでさえ少ない余暇?を犠牲して共同での活動はどうなんだ???って言う感じです。

自分がそういうコミュニティの有難さを感じたのは、公立保育園で様々な境遇のママ友と出会ったり、他人に仕事のために、

子供を預かってもらった時です。そういう奇特なことをしてくれるのは、どちらかというとシングルマザーや、宗教を持っている

人でした。利他行為というのは、何かを一歩踏み越えて、リスクを冒さないとできないものです。

 

息子が小学生だったころ、隣の小学校学区のハンドボール部に越境して入れてもらったことがあります。

なぜかというと、息子の学校の保護者は専業主婦とワーキングマザーの区分けが激しく、野球やバスケ部は、土日に親がフォローできる

子どもしか入れなかったからです。

隣の小学校地域のハンドボールの監督、メンバーの親たちは、子どもの頃からそこに住み、高校時代には同じ部活だった女子たちでした。

ですので親子二代で、ハンドボールで先輩後輩です。ハンドボール部OGママたちはとても親切で、この時代にはなかなかない愛情を、越境して入部した息子に注いでくれました。

ちっとも協力しない親の子供に優しくしてくれて、引率や差し入れ、お楽しみ会などを引き受けてくれる彼女たちのチームワークは本当にすごかった。若い頃の部活時代に培われた友情やチームプレイがそういう活動の力になっているのでしょう。

私はと言えば、何も恩返しできないままに、活動期間が終わってしまったのでした。感謝するばかり。困った越境者です。

 

ひょんなことから、駒塚由衣さんのオフィス由宇主催「『カレンダーガールズ』(作・ティム・ファース)の舞台稽古をお手伝いしました。

イギリスのヨークシャー地方ネイプリーの村だか町の婦人会のお話です。

私もどっぷりと一週間だけ、ネイプリー婦人会に入会させて頂きました。

イギリスは階級社会。そこの人たちは、もちろんワーキングクラスの人々。専業主婦もいれば、花屋の女将さん、元教師、妙齢の女性たちが、教会のホールに集まっては、講演会や様々な活動をしています。

幹部が企画する、くだらない講演会、有難いお話、辟易としながらもみんな教会のホールに集まるのです。

一人の主婦、アニーの夫が白血病に倒れる中で、彼女たちの寄付活動が始まり、地方の病院待合室へのソファを買うことを目標に、ヌードカレンダーを売りだしてしまいます。そこから巻き起こる事件、いさかい、本当に活き活きとして、毒舌がさえわたるお話でした。

イギリスの戯曲で一番好きなのは、マーティン・マクドナーの「ビューティー・クイーン・オブ・リナーン」です。

母の介護殺人の暗い話ですが、アイルランドの田舎は日本の田舎とそっくりでした。

そう、かけ離れた地域のように思えるのですが、その因習や旧い価値観で若い人を苦しめる地域性が、そっくりなんです。

 

このネイブリー婦人会で私が一番、感情移入したのは、幹部のマリーです。

マリーが婦人会の秩序や品位をもとめて、過大な要求を構成員にするのですが、ただのうるさい中年女ではなく、どうあるべきか?どういきるべきか?という葛藤の中で、マリーは毒舌をはきまくるのです。

彼女らは、多分ですが、所属教会が、今回は国教会の人ばかりで、宗教的な葛藤は無さそうでした。

劇中、感謝祭やクリスマス、春のお祭り、収穫祭と祭りだらけ。

田舎の教会を中心として行われるそういった行事にその地域の人たちが参加しているわけで、素晴らしい地域なのかもしれません。

けれども、皆が所謂「幸福」なわけではありません。

シングルマザーでアレサ・フランクリンを思わせる教会のオルガン弾きのコーラ、セレブの妻だけどなぜかネイブリーに来るモデルの様なシーリア、個性的で面白い言い回しのルース、花屋でやりてのクリス、夫を白血病で亡くす主人公のアニー、元教師のジェシー。キャスティングがぴったり過ぎて、役が喋ってるのか、女優さんそのものの人生が見えてくるようなセリフと演技に圧倒されまくりました。

問題を抱えているから人間は成長するんだろうな、と思わずには居られません。そして、劇の中の出来事のように、沢山の人が集って

ワイワイガヤガヤする機会がコロナで失われたこと、それが復活するのだろうか?と婦人会を観ながらおもいました。

 

ネイブリーの彼女らは「ボランティ」としてヌードカレンダーを成功させます。けれども、その成功によってまた違うものも呼び込みます。

虚栄や嫉妬、人間の負の側面、過去の執着、脅かされた過去の暴露、打ち上げ花火の様に、それらがセリフによって花開くのには作劇術の素晴らしさに舌をまきました。

カレンダーがマスコミにも取り上げられ大成功した時、得意の絶頂のクリスにマリーが、グサリと槍を突き刺します。

 

「ここで言ってみなさいよ。クリス・ハーパー、このカレンダーには、一切私情はなく、興奮で胸が高鳴ることもないって」

ボランティや全ての善行、他人の為と思ってする行為には、こういう落とし穴があるんです。

悪を糾弾し、正義を振りかざす時、人は最も楽しそうな顔になります。私はそういう顔をよく見ます。

宗教はそういうことが一番、起こりやすいし、実際、聖職者の性加害、虐待がようやく世の中に出始めてきました。

白黒きめて自分の優位や、行動の効果を確かめる時、こういう胸の高まりが誰にでもあるでしょう。

結局のところ、人間は不完全な生き物で絶対に正しいということはないのです。

私にもありました。物事が成功したとき、正しい力を持ったときにその悪魔は現れるのです。

マリーの吐いた毒舌というか、真理は、曖昧な日本人には吐けない言葉です。

 

アニーは白血病の夫を誰よりも愛していて、治療に尽くします。

本当に生きている間にしかできないこと、そういう看病ができたアニーはある意味、幸せだったのかもしれません。

そして、亡くなってからも彼の仕事や、遺志を大事にするアニーだからこそ、裸になったんです。

カレンダーが沢山の人に喜ばれて、あちこちの癌サバイバーや遺族から手紙が届きます。

アニーはそれを背負えるとおもい、でも背負えないことを自分で分かります。

 

御芝居は集合知の産物で、登場人物のそれぞれの俳優さんが膨らめていくキャラクターや立ち上がるセリフによって形が出来るのです。

セリフのパス回し、サーブ、レシーブ、シュート、集団が作り上げる芸術は、Show must go on! です。

 

脚本の謎を解きながら、婦人会の皆さんの肉弾戦、エリザベスな侯爵夫人やブロッコリーの謎の講師、妻を愛する夫たち、愛情あふれるカメラマン、滅茶苦茶受けてみたい死海の塩トリートメントの施術師、テレビ業界男性の奮闘に大変なエネルギーをもらいました。

千秋楽まで、脱ぎまくってください!!