その日、私はあなたと出逢った―その宿命を私は憎むべきなのでしょうか― 韓国時代小説 猫は見ていた | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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小説 お嬢様春泉の秘密

  第一話  猫は見ていた

~あなたを愛しているけれど、同時に憎んでるもいるわ~。

16歳の私が初めて愛した男は、父を殺しにきた刺客だった。「悪魔的に美しい暗殺者」

を愛した少女の悲劇。

 

だから、どこまでが真実なのかは判らないのだけれど、確かに、あの父と母であれば、そういった過去も満更あり得ない話ではなかろうとも思えた。
自分以外の女に夢中になる父を、母は心底から嫌悪し、許せなかったようだ。父が幾ら寝室を訪ねてもすげなく撥ねつけることが続き、しまいには父も母に触れようとはしなくなった。父の脚が遠のいてしまったのは、母のつれない態度のせいだと言う人もいるが、その母の気持ちは春泉にも共感はできた。
もっとも、この国では、金と地位のある男が複数の妻を持つのは当然とされている。そんな良人の行状を鷹揚に受け止め、時には妾やその生んだ子どもたちの面倒を見、相談にも乗ってやるのが正室の務めとされていたのだ。全く女の誇りや心はとことんまで無視された不文律ではあったが、哀しいことに、それが現実だった。
が、かといって、それが母のやっていることのすべての言い訳になるとは思えない。母が屋敷に引き入れるのは、二十歳前後の若者ばかりで、娘の春泉と大差ない歳の若者ばかり。しかも、父は殆ど屋敷にいないので、母は誰はばかることなく若い恋人との情事に耽っている。いつだったか、母の部屋の前を通りかかった時、ひそやかな衣ずれの音と艶めかしい喘ぎ声が聞こえてきて―、春泉はビクリを身を引きつらせたものだ。
思わず両手で耳を覆い、彼女は怯えた野兎のようにその場から走り去った。そのときほど、母を汚いと思ったことはなかった。父は母の浮気を全く知らない。使用人はすべて周知の事実だが、万が一にもそんなことを千福に告げれば、忽ち、母からどんなに酷い罰を与えられるかを知っているから、絶対に言わない。
商用で多忙な合間に父が束の間の安息を求めて赴くのは妾の家で、柳家の屋敷ではない。それでも千福がたまにでも屋敷に帰ってくるのは、溺愛している一人娘の顔を見るためだけだ。
千福もまたしたたかな男だったから、側妾との間に子どもは作らなかった。少なくとも、表向きには、千福に春泉の他には子どもはいないことになっている。だが、屋敷の女中を何度も身籠もらせたという父が大勢の愛人たちとの間に子をなさなかったというのは、どう考えても不自然すぎた。
柳家の女中たちの噂によれば、千福は愛人たちとの間にできた子どもたちをひそかに里子に出しているのだという。相応の持参金をつけて、下級貴族ややはり裕福な商人の許に押しつけているというのだ。まあ、母のように無理に流産させたり、折檻したりするよりはよほどマシだとは思うが、いずれにしても、千福の行状も母と似たり寄ったりで人の道にはおよそかけ離れていた。
留守がちの父に代わり、家政を任されているのは母であり、柳家では〝奥さま(マーニム)〟は旦那さまである千福よりも使用人たちから畏怖され、絶対的な権限を持つ。使用人に対する扱い―過ちに対する罰も辞めさせるのもすべて母の采配一つにかかっているのだ。
そんな状況で、彼らが母にとって余計なことを父に告げるはずもない。隷民(チヨンミン)である彼等はあまりにも無力だ。持ち主にとって彼等は財産の一つと見なされ、その意思のままに売買される対象ともなり得る。
春泉にとっては、父も母もどちらもが軽蔑と嫌悪の対象でしかなかった。屋敷内で心を許せるのは、乳母の玉彈だけだった。
今も玉彈は春泉の後ろで震えているだけで、これではどうも主従逆のようではあるが、気の弱いところも含めて、春泉はこの乳母を大切な存在だと思っている。
しっかり者の娘が母親を守らなければと思う心情に似ているかもしれない。
「生憎と、私はこれでも宝飾品については少しばかり見る眼を持っています。おじさんが私に売りつけようとしているのは、たった今、おじさんが私に言った値段の半分もしないはず。幾ら何でも、それは少しやり過ぎではありませんか?」
凄む男に少しも臆さず、春泉は相手の眼を見据えて堂々と言った。
その怯まぬ態度が余計に男の癇に障ったらしい。男が品物を並べた台の向こうから往来へ出て、春泉に近づいてくる。
「黙って聞いてりゃア、本当に言いたい放題言ってくれるじゃねえかよ。うら若いお嬢さんだと思って、甘い顔してやってたら、調子に乗るんじゃねえよ、ええ?」
男が喚き、腹立ち紛れに春泉の身体を突いた。それは流石に彼女も予期していなかった行動だった。弾みで痩せっぽちの春泉の身体はよろけ、後方へと倒れそうになる。
その刹那、背後から春泉の身体を抱き止めた逞しい腕があった。愕きに声もない彼女をそっと脇へやり、大柄な男が露天商の前に仁王立ちになった。
「おいおい、おっさん。若い娘相手に大の男が無体なことをしちゃいけねえよ。俺は先から、あんたたちの話を一部始終聞かせて貰ったが、このお嬢さんの言い分は至極真っ当で、一部の誤りもありゃしない。商売人は多少の儲けを見込んで客に品物を売りつけるのは常識とはいえ、あんた、幾ら何でも、あんな安物にそれはやりすぎじゃないのか? こちらのお嬢さんが文句を言ったって、仕方ないと思うがな。欲を出すのもほどほどにしないとね、そのうち、天罰が当たるよ」
ふいに現れた男が支えてくれなければ、春泉は間違いなく地面に激突するところであった。
唖然としていた春泉の前で、男は腕組みをし、威嚇するように露天商を見つめている。露天商は男にしては小柄な方ではあろうが、それにしても、眼前の男に比べると、大人と子どもほどの違いがある。
身の丈だけではない、彼女を庇うようにすっくと立つ男は後ろから見る背中も肩幅があり、がっしりと逞しかった。柳家に仕える下男や執事は別として、春泉の身近には父千福しかいない。滅多に逢えない父以外、彼女がこうも間近で異性と接する機会は殆どないのだ。その点、勝ち気でしっかり者とはいえ、春泉は屋敷の奥深くで大切に育てられたお嬢さまであった。
男性に免疫のない分を差し引いても、その男は彼女の眼に随分と頼もしく映じた。喋り方から察しても、かなり若い―もしかしたら、春泉とさほど歳の違いはないかもしれない。
「若造、言わせておけば、お前も随分と言いたいことを言ってくれるじゃねえか」
小柄な露天商が凄みをきかせた声をひときわ張り上げた。しかし、生憎と、誰が見ても、この二人の男の対決は長身の男に凱歌が上がったようだ。見るからに、貫禄負けである。
それは、まるで貧相な野鼠が獅子に毛を逆立てて歯を剥いて精一杯の抵抗をしているようにも見え、滑稽でもあり哀れでもあった。
「それじゃ、言いたいついでにもう一つ言わせて貰やア、俺もおっさんと同じ商売してるもんで、そちらのお嬢さんと同様、小間物についちゃ、多少の知識はあるもんでね」
「なにっ、青二才が生意気言って―」
言いかけた男の顔色が変わった。改めて立ちはだかる若い男を睨(ね)めつけているようだ。
「まっ、まさか。お前は」
「あんたの言うように、俺は確かに若造だけど、これでも古くからの知り合いやダチは四方にいるもんでねえ。あんたがあんまりやりたい放題に阿漕なことをやってくれてると、同業の俺たちも良い加減、迷惑するわけよ。眼立ちすぎると、役人の眼にも止まるからさ。あんたが欲を出しすぎたせいで、俺らまで巻き添え喰っちまっうってのは、どうも割に合わねえしなぁ。俺が今日、あんたのやったことを仲間にこれこれしかじかと教えてやりゃア、あんたはもうここいらで二度と商いはできなくなっちまうと思うが? それでも良いのかい、おっさん」
最後の部分だけは、まるで地の底から這い上がってくるような低い声で囁かれ。
小柄な露天商は気の毒なほどに青褪め、縮み上がった。
「お、お前がもしかして、あの光王(カンワン)か?」
露天商の声が上ずるのに、若い長身の男は余裕の笑みで応えた。
「俺の名前なんて、この際、どうでも良いさ。さあ、俺の言うことがよおく判ったら、これからは真っ当な商売をするんだな。マ、欲を出すなら、ほどほどにね」
男はこの場に相応しからぬのんびりとした声で言うと、くるりと振り向いた。