生きると言う事。 | 日々此探究。

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カレーとメタルをメインに書いているブログです。
メタルって,音楽のジャンルの事です。
カレー以外の料理についても書きます。
お花の事も書きます。

つまり,自分の思う事を好きなように書き綴ります。
どうぞ,ごゆるりと。

先日,川崎病を発症しているお子さんを持つ親御さんから,ペタを戴きました。
先方のブログを読んだ時に,とても苦しかった。
俺には何も出来ないのだけれど,せめて,俺の様な体になって欲しくなくて。
吐き気がした。
何が辛いでもないけれども。


そんな事もあり,ちょっと,色々考えてしまった。
1歳8か月で発症して,実は今月で25年目。
長い付き合いだな,と。
これまでの過去。
親の思い。
この先はどうなるんだろう,と。

ペタを下さった親御さんが,この記事を読んで下さるかは分からない。
でも,一方でいい機会かと思った。
だからここに,これまでの過去を6,7割を記そう。

君には近いうち,残りの全ても話そう。
そして,両親と共に,僕の躯に触れる権利を与えよう。



25年前,俺は川崎病になったらしい。
勿論記憶があるわけでもなく,全ては親の記憶とカルテに記された文字のみ。
あとで母親に聞いた話だと,川崎病の診断となる諸症状の2つしか当て嵌まっていなかったようだ。
つまり,不完全型。

25年前は,今になって調べると,丁度ガンマグロブリン療法が出来始めた頃で。
東北の最南端で治療していた俺は,まだアスピリンによる治療法で治療されたらしい。

いつから今の心臓になったのかは分からないけど,結果的に,後遺症で冠動脈が閉塞した。
完全な閉塞ではないのだけれど,それでも十分過ぎるくらい状況は悪かった。
と言っても,瘤が残る症例の中では中程度の良くらい。

俺の記憶は,蜂蜜にアスピリンを混ぜ,毎朝舐めていたところから始まってる。
つまり,俺の中では冠動脈が閉塞してるのが当たり前である事になってる。

時が過ぎ,アンギナールが増え,
パナルジンが増え,
ワーファリンを服用し始め,
途中でアスピリンがバイアスピリンに変わると共に,シグマートが追加された。
その後かな,アンギナールがなくなったのは。

記憶にある頃から,毎年交互に心筋シンチグラムと心臓カテーテル検査を行っていた。
薬の量が増えてる事からも分かるように,状況は悪化の一途。

運動は,既に記憶の最初から全てが禁止。
それでも子供ははしゃぐもので。
小学校あたりまでは,結構な頻度で狭心症を起こしていたかも。
記憶にあるだけでも,救急車で搬送されたのが2回。
夜中に親父の車で救急外来に行ったのが…5,6回…?
うち1回は即入院,数日後に心カテだった。

狭心症で救急に入った後には必ずホルター心電図を付けられて。
風呂,入れなかったなぁ。
心電図も,レントゲンも,エコーも,採血も,
もう,飽きるほどやったし,多分,これからもやるんだろう。


21の時,5月の頭だった気がする,朝9時頃,咳ばらいが止まらなくて。
そのまま狭心症になった。
今まで感じた事のない胸の痛みと,床に染みを作るほどの冷や汗,全身の脱力感。
立つ事もままならない中,必死で症状を書き記しつつ,約20分間を耐えた。
翌日,仕事の関係で立ち寄った親父に全てを話した。
説教され,そのまますぐに帰省。
この時はまだ地元の病院をメインにしてたから,そのまま外来へ。
シンチ,したんだっけかなぁ…。
余りの悪化状況に,その夏に治療をする事がトントン拍子で決まって。
その時だったかな,処方箋にニトログリセリンの名前が増えたのは。

そしてその年の8月。
予定通りにバルーンを用いた治療を行い,症状は改善した。

あとはずっと,シンチと心カテを続け。
マスターになった頃かな,それら二つがCTに変わったのは。
お陰ででちょっとは負担が減ったけど。


これが現実。
勿論,申し訳ないけどこれが全てじゃないけど。



子供はね,暴れるから。
心臓カテーテル検査は全身麻酔でやるんだよ。
検査が終わると,麻酔の代謝を早めるために酸素マスクをつけて病棟に戻る。
うちの両親は,なまじ全麻の事を色々知ってるから。
自分たちの息子が,
全身から力が抜けた状態で,
点滴と酸素マスクを付け,
顔色の悪い状況で戻ってきたらどう思うだろうか。

俺の記憶はいつも,カテ室に移動するところで途切れ,
そして次の始まりは,母親が俺の手を握り,二人が心配そうに俺の顔を覗き込む光景から始まる。
俺の目を見ると二人は安堵して,頭を撫でながら,
「疲れただろ。もう少し寝てなさい。」
と。


心筋シンチはね,塩化タリウムのアイソトープを静脈に注射するんだよ。
アイソトープ,つまり放射線同位体。
心臓から出てくるベータ線の量を測って,心臓の血量を見る検査。
これもね,半日かかる検査なんだけど,それ以上にぐったりするのよ。


CT。
言わずも知れた血管造影。
血管に高圧で造影剤を流し入れて,X線で全方向から影を撮る事で心臓の3D映像を作る。
そしてそれを元に診断する。
検査時間にしてみれば20分ほど。
でも。
体内に大量の造影剤を流し込むのは心カテと同じで。
この20分だけで,一日体が持ちそうにない程疲労するのよ。


基本ね,運動が出来ないから。
体力がないんだ。

もうずっと,体育の授業は見学で。
だからと言って,運動できることが羨ましいと思った事は一度もなかった。
それが普通だから。
でも一度だけ,体育の授業で先生に言われたことがあって。
「しっかり見学していなさい。」
と。
ねぇ,見学してどうするの?
学習してどうするの?
むしろ,何を学ぶの?
いつどこで実行するの?
何気ない一言だったんだろうけど,とてつもなく重い一言だった。


心カテってね,動脈の中にカテーテルって言う管を走らせ,心臓まで管を持っていき,
冠動脈の入り口で造影剤を流して,心臓の血流を見る検査なんだよ。

脚の付け根の動脈に,先生が全体重をかけて,ぶっとい針を刺すんだ。
その針を入口として,血管内に管を入れる。
今はね,カテーテルが細くなったから。
脚の付け根の大動脈を使わずに,手首の動脈から検査を行うことが出来るようになった。


俺も一度だけやった事があるんだけど。

ブつッ

動脈に針を刺すと,この音と共に激痛が走るんだよ。
動脈は,心臓の圧に耐えるために壁が厚くて固いから。
かなりの力を込めて刺さないと刺さらないんだ。

そして,その針を入口としてカテーテルを血管内に挿入する。
腕の血管は細いから,カテーテルが入るたびに,腕の中を何かが這う感覚が延々と続くんよ。
何かが,勿論カテーテルなのは分かってるけど,血管を這いながら体の奥へと近づいてくる感覚。
言葉に出来ない。

検査が終わった後,手首の傷をかなり強く圧迫して止血する。
6時間後。
止血の圧を弱める時に弱めすぎたのだろう。
傷口から血が溢れた。
紅をした動脈血が。
心臓に呼応するように。
溢れ,流れ落ち,白いシーツに鮮やかな,でも大きな染みを作った。
その間10秒ほどだろう。
あまりの鮮やかさに,綺麗だ,と言う感想しか出てこなかった。

勿論,付き添っていた両親は,処置をしていた看護師にキレ,
凄く怒っていたけれども。


小学生の頃かな。
カッターを扱っていて左手の親指の根元あたりを抉った。
救急に駆け込んだんだけど,その時傷口を覆っていたハンドタオル2枚は,
見る影もない程に赤く染色されていたっけ。
それくらい,血が止まらない。



体に針を刺す事も
管を通す事も
アイソトープを打つ事も
造影剤と言う異物を流される事も
大量の放射線を浴びる事も
たくさんの薬を飲む事も
全てが当たり前の日常になっていく。

そりゃ,体を傷つければ痛いし,検査をすれば疲れるけれども。
でも,その事実だけ。
もう,辛いも苦しいも思わなくなってきたなぁ…



それが,俺にとって生きると言う事。
あなたはどう思いますか?
大変そう,辛そう,可哀そうと思いますか?

嫌いな言葉だけど敢えて使おう。
あなたに俺の体が理解できますか?
普通じゃない,病気を纏った体に対して,可哀そうと言う言葉を当て嵌めますか?
自分にとっての日常を,可哀そうと,大変だねと,言われる気持ちが分かりますか?

だから,それすらも聴いた上で,それでも 「だから何」 と,言った君に絶句しただけの話。
だから全てを話そうと思っただけの話。
初めから全てを話す事は出来たけど。
それでも君は,その前から,話の断片情報から色々調べていてくれていた。
それならば,全てを話さずに敢えて調べてもらおうと思った。
その方が君の知識になるし,聞いただけの知識より多くが定着する。
この先を考えるならば,敢えて,すぐには全部話さずにいようと思った。
残ってるのは重箱の隅を突く様な情報だけだけれど。
でも,それで全部だ。
あとはいくらでも,俺の躯を左右する話し合いに混ざって貰って構わないし,そうして貰いたい。



話が逸れた。
これが全てノンフィクション。
川崎病の後遺症の一端として,皆様に知って戴けるとありがたいです。

その上で。
ペタを下さった親御さんのお子さんに,後遺症が残らない事を強く願っています。
俺の様な体になっちゃダメだ。
親御さんへ。
数年の時間を要するかもしれませんが,落ち着くまで,しっかり検査を受けさせるようにして下さい。

全く繋がりのない方だけれども。
それでも,俺みたいな,俺の両親みたいな,
そんな思いをする人が増えて欲しいとは微塵も思わない。