多峯主山難行記④―儒学者の墓 | blog.正雅堂

多峯主山難行記④―儒学者の墓

(続き)

久留里藩の藩祖・黒田直邦は享保20年(1735)3月26日の夜四ツ時、江戸神田橋の藩邸で死去し、翌月閏3月18日に能仁寺裏の多峯主山に葬られた。その墓所の傍らには、儒学者・太宰春台による碑文が建てられている。




儒学者でもあった黒田直邦。その影響は将軍綱吉の儒学好きから来ていると思われる。

荻生徂徠、安藤東野、服部南郭、そして太宰春台などとも交流があり、特に林信篤(鳳岡)とは、師弟を超えた交友があった。


 現在、新宿区にある林家墓所の、林信篤廟には、直邦が撰文した碑が残る。直邦67歳のときの碑文で、信篤の遺言によって作られたものとされる。政治家であった直邦が、儒学者として認められていた証でもある。


また綱吉の寵愛振りは高く、20歳年下である直邦の屋敷へ度々訪問、つまり「御成り」を行っている。


そして、徳川実紀・常憲院殿御実紀の最後には綱吉の臨終に関する記述がある。これによると綱吉の死は急死だったようだが、このときに居合わせ、倒れる綱吉を背後から抱えたのが直邦であったと記されている。容態急変の報を聞いた柳沢吉保は急いで登城するも、その臨終には間に合わなかったという。


常に綱吉の傍近くに仕えていた事を示すこの逸話は、直邦邸への度重なる御成りと共に、寵愛振りを垣間見ることができる一例であろう。


こうした日常のために領国へ変える暇がなく、将軍の傍近くに仕え続け、常に江戸に住まいした。そして領国の下館城へは、森光照が城代として派遣されたのである。


(続く)