いや~、


物忘れが最近ひどいな~、と思っていたんですが

昨日もブログのネタをすっかり飛ばしてしまって
弟へのメッセージを送っていました。


たしか前々回の終わりには


ま、

これよりは次回に持ち越します。
 最初からその予定だったのでね。

 
忘れないように記しておくと

 
テーマは

「覚える力」「思い出す力」「勘」「考える力」などは
退化していくのかもしれないけれど実は眠っているだけなのではないか?
についてです。
 
そして、もう一つ


「どこでもドア」欲しいよね。

の二本立てでお送りしようと思います。
 

覚えていれば・・・ですけどね

(なんじゃそりゃ)

 


と こう締めくくってたはずなんですが・・・・・

 

え?
どこでもドア・・・

 

なぜ唐突に。


「忘れる」とか「思い出す」の以前に唐突だな。

 

どこでもドア・・・どんな展開なんだよ?一体。

 

と、忘れているフリをしておりますが

 

要はこうです。

 

 

 


ネット依存社会になり、スマホ(スマフォ?)の急激な普及があり
ヤホーさんやゴーグルさんの検索システムの恩恵があり
AIが進化した新しいシステム(Siri、コルタナなど)の開発もあり
アマゾンや楽天などネットで商品を注文する便利さもあり
そういった事が便利を通りこして当たり前の日常になっている。
TV番組だってもう録画じゃなくって見逃しても後から見れたりする。
そんな世の中であれば「覚える」「考える」必要がそもそも薄れてしまい
いつでも検索かけて調べたり出来ちゃう。
それが「忘れる」事の一因になっていて「思い出す」力も必要なくなっている。
そういった記憶や考えようとする力が必要ないと思っちゃう怖さ。
それに気が付いていない怖さ。
そしてそういう事が実は「小さな感動」「ワクワク感」「ドキドキ感」
そういった感情を薄めてしまっているんだよな、って事
これって、どうだろう。
どこでもドアで一瞬でどこでも行けちゃう事がもしも当り前になったとしたら
それは「便利」な事なのか「怖ろしい」事なのか
そういう事をGWにしまなみ街道サイクリングという70kmちょっとを
自転車で走破するというアナログなイベントに参加することが

思い返すきっかけになった。

って言う事なんです。

 

 

 

 

分かりますかね?

 

話しのうまい人なら もっと簡単に 説明できるんでしょうが

 

なんせ 僕は


脱線が ピカソよりも好きなんで、永野さんのように。

(倒置法で。 それってラッセンですけど最近見なくなったね)


「忘れる」「覚える」「思い出す」
ということは それぞれがけっこう近くにある事で

「考える」っていう事もこれに影響する事で

 

そういう部分を 便利さの中にいて 頼ってしまう事が日常になると

結果 もともと持っているはずのそれらの能力は眠ってしまうだろうけれど

 

それよりも 「感動」や「いつまでも強く記憶に残るような出来事」って

損なわれちゃってんだろうな~ って

そういう事が言いたかったんですね。勿体ないよな~ って

 

なぜ、平成も29年にもなって
いまだに けっこう頻繁に「昭和の名曲」を取り上げた番組するんだろう。
って 不思議に思いませんか?

 

学生時代の部活やクラブ活動なんかで辛かったり楽しかったり
苦しい思いしたことって結構鮮明に覚えてたり
いつまでも喋れたりするのはいったい何故なんだろうか
って 疑問に思ったりしませんか?

 

アナログな出来事だったからなのかもしれない。
僕は そう思うんですね。


サザンの歌なんて 歌詞カードが命だったから
何回も聞き返してなんて歌ってんだろう?
ってめっちゃ気になってたりしませんでしたか?

(これって 僕と同年代か以上の方向けの質問ですが)

 

昔の歌って 最初から最後まで歌える曲ばっかりだけど
この頃の歌は サビしか知らないのは 何故なんだろうか?

 

 

 


ゴ、ゴホン!

(ちょっと何言ってんだか 分かんないの咳払い)

 

 

 

 

桑田さんじゃなくって 
ちょっと何言ってんだか分かんないのは大野さんの方でしたね。

 


そうなんです、
GWにしまなみ街道サイクリングというイベントに参加してきたんです。

(また 突然に 話が変わっちゃいますが)

 

 


自転車を借りて
今治の「サンライズ糸山」という場所を15時に出発
GOALとされる 尾道 に到着したのが21時


6時間かかりました。

 

時間も時間だったのでGOALの自転車を返す場所も営業時間外
たった一人、誰もいなかったんですが とても感動していました。
達成感が半端なくって。

(倒置法 IN 尾道)

 

そして、一晩尾道で過ごして 翌朝7時に自転車を返しに行きます。

足がガクガクで疲れていた事と
その日の夜には実家の久万高原に帰らなくてはいけない事情があった事と
お財布に少しお金があったので

帰りは新幹線や列車、タクシーを乗り継ぎ2時間半ほどで今治に。

 

で、一番強く思ったことは そういうのをトータルして

なんだか勿体ないな~ってこと。

(列車の旅は、それはそれで良いことなんですが)

 

 

行きと帰りでは 方法も 時間も かかったお金も全然違います。

そして、疲労度や考えている事も。

もちろん、感動だって違う。

覚えている事も、思い出す事も。

帰りはちょっと寝てたし。気持ちに余裕もあったし。

 

 

今、自分がどの辺にいるのか?

 

帰りだからというのも大きいけれど、疲れていた事もあるけれど

今、自分がどの辺にいるのかなんて 列車の中にいたらあまり気にならない。


これが自転車だったら

「自分が今どの辺にいるか」という情報はとても大切で敏感になる。

 

自分が走ってきた道が 距離感となり
先に見える景色や風景で これからの道を予測したりしている。

 

60km地点くらいでは もう日も落ちて真っ暗。

まったく知らない道を 正しいのかどうかもよく分からず
ある意味 自分の勘に頼るというか賭ける心情になっていました。

 

そうすると、不思議なものでいろんなものが敏感になってきて

暗い中なのに なんだか標識らしきものがしっかり見えたり
磯の香りがしてきたから、そろそろ海岸沿いに出そうって気が付いたり
遠くの 地元の人たちの話声が聞こえてきたり
(潮風が運んできたのかもしれないんだけれど)

 

つまり 五感が鋭くなった自分がいたんですね、人間って凄い。

それと同時に 普段使っていなかったり
ただ眠らせている能力って あるんだろうな
って気づいたんですね。

 


そこで経験したしまなみ街道の行き帰りの方法の違いによる
・感動
・記憶
・勘が冴えわたる現象
・考えたこと
・思い出す事
・忘れられない事

これが 昔と今 の違いになんだか似てんだろうな
と そう思ったという事なんですね。

 

帰りよりも行きの方が 半分以上も時間かかってんだけれど
得たものは時間と同じ、倍どころではないって事。


これがさ、
どこでもドアなんて本当に出来てしまったら
一体 どうなっちゃうんだろうか?
と考えたら怖くなっちゃう部分あるよね。

 

今治ー尾道間 1秒もかからない。

 

それどころか

京都だって、熱海だって、東京だって、NYだって、
ワイハだって、凱旋門だって、イースター島だって、
マチュピチュだって、北極だって、1秒もかからない。

職場や学校だって。

早起きしなくなるよね 笑

(そういう問題ではないけれど)

 

ときどき 仕事中思うんです。

物件の案内があっちこっちであって頭の中が混乱している時

「あ~、どこでもドアがあれば~」ってね。

あれば、1秒もかからない。

(それ何回言うんだ)

 

話しが飛躍しすぎたけれど
もしもそうなっちゃったらもはや「便利」という言葉もなくなるかもね。

 

ア〇ゾンも 即日配達を運送業者に頼まなくなるよね。

1秒もかからない、から。

(だから何回言うんだって)


どこでもドアは 便利さの 例えなんだけれど
そういうことで 失ってしまう事が多々あるであろうな、と。

 

現に忘れやすくなって思い出す力が弱っているのは
そういうサインなんじゃないかな?

 

ドリカムさんが歌ってた「未来予想図Ⅱ」の歌詞の一部

私を降ろした後、角を曲がるまで見送ると
いつもブレーキランプ5回点滅してるのは

本当はそういうサインだったんじゃないかな?

(正解は「アイシテル」だけどね。しかもカタカナで。)

 

現在の事を1989年に未来予想図として暗示してたんじゃないかな

(それって絶対ちがうけどね)

 

昔の歌の歌詞は不思議とよく覚えているよね~

(言いたかった事はこっちの方です)

 

 


ま、なんやかんや言うてますが

(突然ですが、もう締めに入ろうとしています)


便利な物に頼りすぎることで失うものは実は多いという事。

それってなんだか勿体ないよな~って思う。

 

だから、どこでもドアが出来ちゃったら
便利ではなく実際は困るよねって事 

 

ま、でもさ

どこでもドアが もしも本当に当り前に普及されるようになったら
一番困んのは 断トツで しずかちゃんなんだけどね

(なんじゃそりゃ)

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