映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキーが新作『エンドレス・ポエトリー』を制作するために、クラウドファンディングを開始しました。
クラウドファンディングがかなり広まっている現状からすれば、映画のためにお金を広く集めるというのは不思議ではありませんが、ホドロフスキー監督は御年86歳。その若々しさに感動します。
たとえばコンピュータが劇的に広がったのはWindows95が出てきたとすれば、それはホドロフスキー監督66歳の時です。そのことを考えると、青春とは年齢のことではないというサムエル・ウルマンの詩が思い起こされます。
青春とは人生のある期間を言うのではなく心の在りようを言うのだ
(Youth is not a time of life-it is a state of mind)
*ウルマンに関しては以前も言及しました。全文はこちらにあります(「走れ、走れ! 僕の行けなかった道を」の傲慢 2012-08-21)
彼の新作映画にかける情熱の中で、久しぶりに懐かしいチベットの聖人に関する逸話を聴きました。
昨日の寺子屋・冬期集中講座のテーマにもふさわしいと思い、その話を冒頭にしたように記憶しています。
(引用開始)
チベットの聖人マルパはこう言った。「人生、すべてのものは幻影である」と。あるとき、彼の息子が若くして亡くなった。彼は悲しくて涙にくれた。すると弟子が彼に言った。
「どうして泣いていらっしゃるのですか。息子さんも幻影でしょう?」
「そうとも、私の息子は幻影だ。だが、今もなお最も美しい幻影なのだ」
(引用終了)(http://www.poesiasinfin.com/kickstarter/ja.php)
幻影という言い方は非常に懐かしい香りがします。
我々は空と言いますが、幻影と呼ぶこともあります。
「どうして泣いていらっしゃるのですか。息子さんも幻影でしょう?」という鬼畜な(笑)質問は、まさに空観の立場からの典型的な発言です(非常に優秀であっても、こんな弟子は嫌ですがw)。
空観はその本質は絶対的な孤独であり、宇宙に私一人ということを悟る観方です。ですから、「どうして泣いていらっしゃるのですか。息子さんも幻影でしょう?」と聞けるわけです。これは皮肉でもいやがらせでもなく、空観をきわめた人間の発言です。
逆に言えばここに空観のリスクがあります。すなわち、幻想だから殺しても良いというポアの思想へ移動するには一歩あれば良いと言えます。そこに何らかの思想が入れば、可能になります(たとえば輪廻転生と魂の浄化などがあれば十分です)。
一方で、聖人マルパの思想は中観です。
「そうとも、私の息子は幻影だ。だが、今もなお最も美しい幻影なのだ」
幻影であることは百も承知で、しかし「今もなお最も美しい幻影」なのです。だから「彼は悲しくて涙にくれた」のです。
空観を経て、我々は中観にまで至らない限りは、空を悟らないほうが良かったとあえて言いたくなるような人間になる可能性があります。
我々は空なる存在であり、空なる世界を見ている、幻影の幻影であることを知りながら、その幻影の美しさを愛(め)で、そして涙にくれる存在でありましょう。