沈黙の被爆者 | Keep a journal @ 山脇りこ/Riko's Kitchen

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日々の、食、衣、住、旅、好きなことをつづっています。

今日、8月9日は、

地球上で最後に、

大量殺戮を目的として原爆が落とされた、

長崎の原爆の日です。


67回目の原爆の日でした。


私の家は、先祖代々、長崎で、

家族は長崎駅からほど近い、

爆心地からは、2キロほどのところで暮らしてきました。


私の親の代は、私の親も含め、その兄弟、姉妹、親戚、

ほぼ全員が、2キロ圏内で被爆した、

被爆者です。


とはいえ、

被爆者だということを

毎日、考えたり、意識しながら暮らしている(いた)かと言うと、

そんなことはなく、

いたって普通に、

毎年訪れるこの日も、過ごしていたように思います。


普通に、大学へ行き、結婚し、就職し、

長崎人として、故郷を愛し、

地域の祭りや、四季折々の風物に親しんで、

そう、普通に。


それでも、

あの日の、ピカドンのことを強く思い返すような、

衝撃的なことが、訪れる日があるのです。


東京で結婚していたひとりの叔母は、

50代で、多発性の(宿主の臓器が一か所ではない)がんに苦しむようになります。

それは、子宮癌からはじまりました。

小さなころから、私に、本を読むことの喜びを教えてくれた叔母でした。


その時、

叔母は、あれがいけなかったのかもしれない・・・と話してくれました。


8月9日は女学校で、

爆心地から比較的離れていた叔母ですが、

翌日から、被ばくしながらも生き残った人々の収容先になっていた

新興善小学校で、

看護の手伝いに駆り出されたそうです。


おびただしい数の患者、被害者、つまりは被爆者。

全身をやけどしている人、

外傷はないようなのに、吐き続ける人・・・・。


『あそこで、私も被爆したとかも知れんね・・・。』


たぶん、彼女は、

自分が被爆者だったことを、

理不尽な病を前に、初めて強く意識したと思います。


叔母は、60代でこの世を去りました。


長崎で役所勤めをしていた叔父は、

定年で、翌月から、某所の館長に天下る・・という直前、

白血病と診断されました。


長崎大学病院には、原爆研究の意味の、原研内科があるのは

ご存知でしょうか?


他府県よりももちろん多い、

白血病の方が、多く入院されています。


もちろん、叔父がそんなことになるまで、

私達は、その存在さえ知らなかった。

叔父も、また、

白血病という病名を聞いた時に、

はじめて、被ばくを強く意識した・・のです。


あの日、叔父は、自宅(爆心地から2キロと少し)にいたそうです。

ピカドンがあったあと、

爆心地から500メートルほどにあった、

三菱の工場に動員されていた、当時女学校に通っていた姉(私の叔母、先の叔母とは別人)

が帰ってこないことを心配し、

真っ暗な中を、

電車の軌道をたよりに、探しにいったそうです。


みなさん、ご存じだと思いますが、

原爆直後は、急に夜になったと思うほど、

真っ暗だったそうです。


そして叔父は、やはり家を目指していた叔母と、

劇的な再会を果たします。


叔母のいた工場では、

運動場にいた人は、すべて、ぜんぶ、

一瞬で、焼け焦げたそうです。


屋根の下にいて、奇跡的に助かった叔母。

探しに行った、弟=叔父。


そして、叔父は、あの、爆心地へ向かった道のりが、

被曝だったのかな・・と、思い至るのです。


白血病を前に、

『なんで・・自分が?』といつも、自分に問いかけていたようです。

そのとき、浮かぶのが、

あの真っ暗な、爆心地への道。

当時は、なんの知識もない中で、

ただ姉を探しに歩いた道だったというわけです。


なんと・・・哀しいことかと、私は思いました。


私に、日本人としての節目節目での礼節や礼儀、

ひととしての躾を、厳しくしてくれた叔父は、

2年の闘病を経て、

帰らぬ人になりました。


もうひとりだけ、話します。


2年前に、亡くなったまた別の叔父、

義叔父のことです。


60代から、

肺がん、肝臓がん、そしてまた肺がん(転移ではない)、

多発性のがんに苦しんだ、義叔父。


爆心地から、300メートルほどの家にいた彼は、

弟とお母さんと3人で、

真っ黒な雨が降る中を、

山へ、山へと避難しました。

その途中の景色は、まさに地獄絵図だったそうです。

私には、詳しく教えてくれました。


なんとか、3人は生き残り、

元気になり、わが家と縁あって、身内になるのです。

まったくもって、普通に、

子供がいなかったので、よく私と遊んでくれて、

おいしいお店にも、子供の私をよく連れて行ってくれました。


でも、

やはり、被ばくの日を強く思いだすことになります。


まずは、若くして、お母さんが、肺がんで亡くなった時。

そして、

弟も、若くして、肺がん、その後の多発性のがんで、亡くなった時。


最後は、

自らが、多発性のがんと闘った時です。


だけど、

そんな叔父が、原爆症の認定を受けたのは、

亡くなる1年ほど前のことでした。

すでに、がんは進行していました。


ただ、ここで、紹介した私の身内は、

大切な家族は、

最後にそのことが認められたこの義叔父以外は、

ふたりとも、因果関係を認められることはありませんでした。

原爆で亡くなった人ではない・・とされています。


というか・・・そんなことを申し立てたりする間もなく、

いえ、そんな発想さえもなく日々を送り、

『もしかして・・あれが?』と思い至った時には、

もう命の火が消えかけていた・・・そういう被爆者なのです。


もしかしたら、

みなさんは、

テレビが8月9日になると取り上げる、象徴的な被ばく者の方々を、

被ばく者のすべて、だと思っているかもしれません。


でも、言いたい。


こんな風な沈黙の被ばく者が、たくさんいると・・。


声を発し、

例えば、メディアにとりあげられたり、

語り続ける運動をしたり、

国連に行ったり、

国や地方の政治や行政と戦う人ばかりが、被ばく者ではないのです。


そういうこととは、

とくに期せずして、

距離を置いて、

普通に暮らしていた人が、

ある日、

『え?もしかして・・・』と数十年前の、あの経験を思いだす、


あの、地獄のような小学校の看護の場で?

あの、昼間なのに、真っ暗な道を歩き続けたことで?

あの、黒い雨の中を逃げまどったことで?翌日に少しだけ飲んだ水で?

と。


私は、それこそが原爆の真の怖さだと思います。


小さな私の家族でさえ、こんな話があるのです。

長崎で、当時、私の家族と同じように

爆心地近くにいた多くの人が、

8月9日の、あの瞬間だけでなく、

その後、数十年の中で・・・折に触れて、

強く、自分のこととして、

家族のこととして思う瞬間を持っているはずです。


真の恐怖を感じる瞬間を。


それが、長崎に暮らしてきた人、

たぶん、広島に暮らしてきた人だけが持つ、

特別な体験だと思います。


かなり特殊な病気と症状で、命の火が消えていこうとする中、

その理由を『なぜ?』と問いかけたとき、

8月9日の、

あるいはそのあとの、自分の姿が浮かぶ。


因果関係の有無がはっきりしなくても、

それだけで、恐怖を与えると、私は思います。


無念を、与えていると、そばにいていつも思ってきました。


それが、声高に、

被爆経験を語ることのない、

沈黙の被爆者の姿だと思います。


翻って、

福島で起きたこと、起きていることを思わずにはいられません。


長崎は、なにがおきたのかわからないまま、

逃げることも避難することもなく、

残留放射能の中で、復興しました。


皮肉なことに、

文明は高度に発達し、

科学を信用する中で、自らが作った装置で、

今回の事故は起きました。


当時と違い、

被ばくについての知識ももっている。


それでもなお、

10年後、20年後、30年後・・・普通に暮らしてきたのに、

『え?あのときの・・・あれが?』

と思う人が出てくるかもしれないと、

強く不安に思います。


一方で、

先の話の中で、

爆心地の真ん中でピカドンにあい、

弟と劇的な再会を果たした叔母は、90歳まで生きています。


そう、わからない・・のです。

でも、わからないことこそが、真の恐怖なのです。


あってはならないことですが、

記憶は風化します。


すっかり風化して、私達が慢心したころに、

私の叔父や叔母と同じように、

『もしかして・・・あのときの?』と自問する、

沈黙の被爆者が現れないように・・と祈ります。


殺戮を目的とした原爆投下から、67年。


今日、式典を見て、

8月9日は大変な日だった・・・と世界は思うかも知れない。

もちろんそうです。


でも・・・ほんとうの被害は、

その日から、

爆弾を抱えながら生きていくことを宿命とさせられたことだったのではないでしょうか。


2012年の今、

この先の日々を、

爆弾を抱えて生きていくような人があってはならないはずです。


叔父の、叔母の言葉を思い出しながら、

今、自分がなすべきことを

改めて、考えたいと、思います。


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