はじめに/歴史的混沌-続・神話の多義性〜初夏出雲行(4) | 日々のさまよい

日々のさまよい

昔や今のさまよいなどなど。


はじめに/歴史的混沌-神話の多義性~初夏出雲行(3)←(承前)


B-2)続・神話の多義性


それでは、そもそもオオクニヌシとはどのような神さまなのか、考えてみます。



ザクッと
Wikipedia/大国主で気になる点を見てみると、このようなことです。

Wikipedia/大国主/別称
大国主は多くの別名を持つ。
大国主神・大國主大神・大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命・大汝命・大名持神・国作大己貴命・八千矛神・葦原醜男・葦原色許男神・大物主神・大國魂大神・顕国玉神・宇都志国玉神・伊和大神・所造天下大神・幽冥主宰大神・杵築大神


Wikipedia/大国主/妻・子孫
大国主は色々な女神との間に多くの子供をもうけている。
子供の数は『古事記』には180柱、『日本書紀』には181柱と書かれている。
記においては以下の6柱の妻神がいる(紀では記にみえない妻神がさらに1柱おり、『出雲国風土記』ではこれ以外にもさらに何人もの妻神が表れている)。
別名の多さや妻子の多さは、明らかに大国主命が古代において広い地域で信仰されていた事を示し、信仰の広がりと共に各地域で信仰されていた土着の神と統合されたり、あるいは妻や子供に位置づけられた事を意味している





これらを見れば、説明にもありますように、オオクニヌシ(もしくはオオクニヌシ的な神々)が広い地域で様々に信仰されていたことが分かります。
さらに、別称と妻・子孫があまりにも多いということは、やはり取りも直さず、多様な複数の人格神が次第にオオクニヌシという一柱へ習合していったと考えられますし、そのような見解が定説かと思います。

そうならば記紀の編纂において、それまでヤマト王権により滅ぼされ、もはや特に一柱一国として記すほどの必要がないとされた神々や豪族たちは、このオオクニヌシへと一括して集約されている、ということになるかと思われます。
そうすると、それら失われた神々と豪族の総合体が、国譲り前の、日本という国の礎となるわけで、そのままひとまとめで国造りの神へと成すことができるようになります。

そして、このような目論見でオオクニヌシという人格神を記紀の中へあらためて創り出したとすれば、そのオオクニヌシとは、もの凄い怨念の塊となります。
それも、話し合いによって平和裏に国譲りをしたという、ヤマト王権にとって都合いいだけのあり得ない話しにされて。




ちなみに、出雲大社のオオクニヌシを怨霊と捉えて論じたのは井沢元彦『逆説の日本史1古代黎明編』が有名ですね。
出雲大社は大怨霊オオクニヌシを封じ込めた神殿である

この書はよく読まれていると思いますけれど、特に、元TBS報道記者という経歴から、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など世界宗教からの視点による論評は新鮮に思えます。
私には学術的な裏付けなど分かりませんが、肝心の結論だけは確かにそんな感じだと思います。

しかし、井沢氏はあくまでも学者でなくエンターテインメント性を重視する作家ですから、私もその論証には頼りないものを多く感じますし、それだけに反論も多く出ているようです。

例えば代表的なもので、出雲大社紫野教会の教会長からは、このように反論されています。
出雲大社紫野教会/出雲大社は怨霊の神社?




ここにあるように、日本一大きな建物、神座が横向き、五人の客神が監視、しめ縄が反対、四拍手、雲は死の象徴、丁重に祀る例としての三輪山など、これらは他にそうである理由があってもおかしくありませんから、私も出雲大社を怨霊の神社とする根拠にはならないと思います。

しかし逆に、この紫野教会長の反論における、それではなぜオオクニヌシが怨霊でないのかという説明では、ナガスネヒコ(長髄彦)は祀られていないのに怨霊化していないという例がひとつ示されるだけで、結論は素っ気なく日本書紀のまま、
「大国主神=平和に国譲り=出雲大社は国家守護の神社」であると考えています
というだけのことでしたから、これはこれで、とても納得できない内容です。

しかも反論で持ち出したナガスネヒコは、大和の一豪族長でしかないため、そもそも広範囲で信仰されるオオクニヌシとは奉斎する意義の規模が全く違います。
またナガスネヒコは、自ら奉斎するニギハヤヒ(饒速日命)に殺されてしまいましたので、本来ニギハヤヒとナガスネヒコを管轄すべきは子孫である物部氏ですが、その物部氏も没落していましたから、オオクニヌシとは何ら比較になりません。

そこで問題をシンプルに捉えるため、神話に描かれている“国譲り”を現実的に解釈してみます。
一般的に部族同士が領土と覇権をかけてその政治力と武力により攻防した場合、負けた側の首領が勝った側の差配によって神社へ祀られたということは、その首領は勝った側が後々まで恐れるほどに広く深く民衆からの支持を受けており、かつ勝った側の処刑もしくは自決の強要によって亡くなった、ということではないでしょうか。

またさらに、過剰なほどの立派な神殿を建造するという動機には、そのような民衆からの支持という見えない力に対する勝った側の恐れが先ずあって、次に後々まで被支配国の国力を削ぐために継続的な維持費用や労力の負担を義務づけるという意味もあったのではないかと思います。
つまり、負けた側の首領を祀る神社の規模というものは、そのまま闘った戦争の規模というものを反映すると考えられます。

まあもちろんながら、
これらはあくまで祭政一致が自然に行われていた古代以前のこととしてですけれど。

もしそうだとすれば、『逆説の日本史』では怨霊がオオクニヌシという実在した大国の主1人のものだという前提ですが、それだと迫力に欠けるというか、オオクニヌシとはそんなもんじゃ済まないのではないか、と思わざるを得ません。
もっと無数の怨念とか、それ以上に多様な生々しい人々の思いが、オオクニヌシへと込められているのだと思います。
そこが、根本的にナガスネヒコとは違う点になると思われます。




もとよりオオクニヌシは人気抜群の神さまですから、あえて日本書紀から外されたと思われる伝承も数多くあります。
因幡で兄神の荷物を持たされてる時に傷ついた嘘つきの白兎を優しく助けたり、兄神の八十神から数々の迫害を受けるも母神やカミムスビや貝の女神に助けられて生き返ったり、根の国で祖父神のスサノオから様々な試練を受けるもスセリビメと力を合わせ窮地を脱して大国主の名を与えられたり、とにかくどこに行ってもモテモテだったり。

これらは元々、ヤマト王権に滅ぼされた、もしくは征服された部族の人々が抱く祖神や祖先、族長や親戚や仲間など、父母とか兄弟姉妹への思いでもあるわけで、オオクニヌシという神に込められているのは単なる怨念だけでなく、このような愛とか勇気とか希望とか、人間的な思いも満載されている筈です。

だからオオクニヌシが祟り神だと言われても、あまりスグにピンと来る人は少ないのではないでしょうか。
しかしそうだからこそ、逆にそこへ怨念が積み重なったと考えるしかない征服者のヤマト王権こそが、唯一オオクニヌシの放つ怨嗟の対象と脅迫的に意識され、その祟りを恐れることになるわけです。

そのため、その怨念思慕の塊を一柱へ纏めてしまうことで、今度はそれを一社のみにて祀り上げることが必要となってきます。
小さまざまな怨念思慕がアチコチへ沢山あるよりは、超特大のひとつだけを、一カ所で管理する方が安心確実ですから。

そこで、その祟り封じのために、ヤマト王権もしくはその後の朝廷による命によって一括一社として創建されたのが杵築大社(出雲大社)であり、その奉斎を強制的に特任されたのが出雲国造、ということになると思います。




さぞや出雲国造も、こればっかりはイヤだったろうなあと想像してしまいます。

本来祀るべき自らの祭神が実り豊かな意宇にあるというのに、全国津々浦々から寄せ集められた強大な怨念思慕をも、遠く辺鄙で水害の危険にさらされて来た杵築に祀らなければならないことになるのですから。
またオオクニヌシは、所造天下大神大穴持命(あめのしたつくらししおおかみおおあなむちのみこと)として自分たちにも親しみある神であったでしょうから、それを祟り神として扱うにはかなりの抵抗感があったことと思われます。

けれど出雲国造がもしそれを断れば、間違いなく出雲国は武力によって滅ぼされるというような瀬戸際に、追い詰められていたのではないでしょうか。

そうして出雲国とその民を守るため、やむなく出雲国造は中央政権に服属し、出雲大社でのオオクニヌシ奉斎を受け入れて、熊野大社への奉斎とともに続けることとなります。

しかし、やがて時が過ぎ、武士の時代である中世へと移行すれば、伸びる武士の権勢に反比例して朝廷の影響力も次第に低下して行きます。
そこに別当寺(神宮寺)となった鰐淵寺の解釈により主祭神をスサノオへという意向があれば、もちろん鰐淵寺には武士からの強い後押しもあった筈ですから、出雲大社にとってもようやくの渡りに船、だったかも知れません。

また、もしかしたら出雲国造には、あえて主祭神をスサノオに置き換える積極的な理由があったのでは、ということも考えられます。

それはもちろん、出雲国造とは日本史上最高の“生き神様”で、太古より神の御杖代としてあった一系ということなのですから、その“生き神様”が主祭神を代えて奉斎するということには、実のところスッゴイ意味があったとしても不思議ではありません。

第82代出雲国造が説くように、スサノオとはオオクニヌシの父であり祖父でもあって、
「父の志はその血ととともに子がこれをうけつぎ、父と子は一体として考えられるのだ」
と志が継承されるものであれば…




例えば、オオクニヌシに集められた怨念思慕の上へ、さらにスサノオを重ね祀ることで一体化させ、スサノオの迦楼羅焔(かるらえん)のごとき超強力な霊力によって、怨念思慕を止揚昇華させようと試みた、とか。
もしくは、スサノオは天津神に敢然と対立し、ヤマタノオロチを退治した超武勇の神でもありますから、オオクニヌシの抱く怨念思慕を、スサノオパワーによって朝廷へ倍返ししようとした、とか。

…他に、もしかして私では思いもつかないような理由があったかもですけれど、とても想像が追いつきません。

そこで、一体いつ頃から主祭神がオオクニヌシからスサノオに変わったのか、具体的なことが気になったので調べてみたところ、出雲國神仏霊場/鰐淵寺には、
天平から延喜に至る約二世紀には出雲大社との関係が深まり
鎌倉時代には武家との関係から、延暦寺との交渉を密にし、出雲大社との習合を確立・推進し、別当寺を務めた
とありますから、1,200年~1,300年頃が目安かと思われます。

ところが、古代出雲王国の謎では、このような説明もあります。
「令義解(833年)には、出雲国造の斎く神としては大国主命ではなくスサノオが上げられており、このころの出雲大社の祭神はスサノオであった可能性が高い」
古代出雲王国の謎/出雲大社関連年表




そうしてスサノオを主祭神として奉斎し、さらに長い月日が経つと、前回にご紹介した出雲大社紫野教会/出雲大社の御祭神が素戔嗚尊の時代があったで説明されているような転機が訪れます。
豊臣秀吉の唐入りの際、出雲大社は所領を大きく減らされた影響から、江戸時代に入って鰐淵寺との関係はかなり薄くなりました。
また儒学が盛んになると、神道が見直され「日本書紀」が広く読まれるようになりました。日本書紀においては出雲大社は大已貴神(大国主大神)のお住まいとして建てられた、という話がありますから、江戸時代中期には出雲大社は公式文書にもはっきりと御祭神は大已貴神と記載するようになり、はっきりと大国主大神に戻った、というわけです


鰐淵寺は、社領を失った出雲大社に旨味がなくなったことから手を引いて、出雲大社は祭神を入れ替えていることの後ろ盾を失った、ということかと思います。

また、戦国乱世から徳川治世による太平の世へ移り変わると、朝廷の実権は完全に失われましたけれど、むしろその権威は安定し、途絶えていた宮中祭祀も次第に再興されるようになりました。
そうなれば、日本書紀にハッキリと明記されている主祭神やタカミムスビとの約束が、今まで全く守られていなかったことを問題視される可能性も高まりますし、もはや鰐淵寺に頼れないとすれば言い訳さえ成り立ちません。

そこでようやく出雲国造は本気になって、出雲大社を再出発させことになったのだと思います。もちろん、誇り高き出雲国造なのですから、長きに渡り僧侶にイニシアチブを握られっぱなしだったことにも辟易としていたことと思われます。

何よりその頃、出雲大社は創建からおよそ1,000年ほど経っていたでしょうから、オオクニヌシを祀ることについて当初あったであろうわだかまりみたいなものも、長年の奉斎によってさすがに解消されていたのかも知れません。




千家尊統『出雲大社』には、このように記されています。

大社の歴史にも、時に盛衰があり、戦乱の中世になって社風もようやく衰え、社殿も荒廃し高さ八十尺を維持できず、規模を縮小して仮殿式になった。近世になって第六十八代の国造千家噂光は、このような衰微を大いに憂え、北島国造恒孝とともに協力してその復興をくわだて、松江務主松平直政の支援をえて大改革を断行した。徳川幕府も五十万両を奉納して援助した。
そして神仏習合の弊をのぞき、境内地にあった堂塔を廃して拡張整備し、社肢を高さ八十尺という古来の正殿式に復興して寛文七年(一六六七)にはほぼ現在のようなどうどうたる規模の偉容が完成した。出雲大社の神仏分離は、じつにこの時に行われたのであって、神仏分離といえば一般には明治初年のことと思いがちであるが、当社ではこのようにきわめて早い時代の事であった


そして、出雲大社東京分祠/コラム その四七(『大神さまから戴いた日々』より)によると、

天正十九年(1591)、豊臣秀吉が〝朝鮮の役〟で出兵を要請してきた時、それを拒否したため出雲大社の社領の半分以上が没収されてしまいました

とのことですから、1591年の秀吉による社領没収から1667年に完成した寛文の造営まで、およそ76年をかけ、出雲大社はオオクニヌシを主祭神として復興されたということです。

めでたし、めでたし、ですね~。




…けれど、早ければ令義解の833年より早く、遅くとも鎌倉時代の中頃だと1,250年くらいから、出雲大社の主祭神はオオクニヌシからスサノオへと擦り変えられていた訳ですから、実に400年~800年もの長きに渡り、日本書紀と違えた祭祀が続けられていたことになります。

このように、神話には多面的な意義が込められて、特に、勝ち組であるヤマト王権が積み上げてしまった負の遺産を、負け組の代表として一身に背負わされた出雲ならではの鬱屈、というものの深淵が思われます。

そもそも、意宇の地主神である熊野大神を奉斎する出雲国造の祖神とは、まさに熊野大神=クシミケヌであった筈です。
歴々の出雲国造自身も、古より疑うことなく心の中でそう信じて来たことと思います。
にもかかわらずヤマト王権の因果によって、アメノホヒを祖神としなければならないことになってしまい、出雲には大きな捻れが生じたままです。

日本書紀が成立し藤原不比等の死去した720年から13年を経て、ようやく733年に成立した出雲国風土記では、本来そこに拠って立つべき日本書紀に描かれた出雲の神話にはほぼ触れないまま、多くは異なる伝承の内容となっています。
風土記編纂の官命を受けてから20年、出雲国造はできる限りの抵抗を朝廷に対し続けたものと思われます。

この出雲国風土記を編纂した第24代出雲国造の心中は、如何なものだったでしょうか…



(つづく)→ はじめに/歴史的混沌-謎と闇が多すぎ~初夏出雲行(5)




~いつも応援ありがとうございます~