自分年表 | 強みを活かして生きていく★恵比寿ガーデンプレイスでの独り言

強みを活かして生きていく★恵比寿ガーデンプレイスでの独り言

女性がありのままの自分を受け入れ、強みを社会に活かして生きていくためのヒントをお届けしています。
株式会社プライムコム代表取締役 イイオンナ推進プロジェクト代表
人材育成の会社を経営しています。23歳長女、17歳長男、二児の母。

昨日は、プロフィール講座第二回。

頭が煮詰まってガンガンしてました。

前回より宿題であった自分の掘り下げも、年表を巻物のように作成されている

受講生の方もいて。みんな頑張っているんだなぁ~。


私もいろいろ掘り下げていましたが、今日は私の高校時代のお話をしようかと。


私の高校は親が決めました。

私には、もともと行きたい学校があり、一般受験をするために

一生懸命塾に通っていましたが、受験の直前、推薦のとれる学校へランクをおとし

受験校を変更しなさいと親に言われました。

これから先の人生は、自分で選んでもいいが、高校までは

親の言う事を聞きなさいと言われたんです。

一緒に頑張ってきた塾の先生は、今目指している学校は、合格の可能性も高いんだから

チャレンジしてみようよと何度も言ってくれましたが、私は親を説得できず

安全校である学校にランクを落としました。


親は、今後の私のためを思って選択してくれた事ですが、当時の私は

自分の可能性を信じてもらえなかった、という気持ちと

今まで頑張ってきた事が無駄になるような脱力感で一杯でした。

塾の先生が泣いていた顔も、頭から離れませんでした。


推薦校でしたが、一応試験はあり、周囲の子が試験会場まで

参考書を持ち込み勉強していた姿を見て、今頃勉強したって

落ちるものは落ちるんだよ、と心の中で語りかけている

冷めた自分がいたのを覚えています。


行きたい学校ではなかったので、制服や、学校行事にも全く興味がなく

男女別学であったということも、入学式の当日初めて知ったくらいでした。


入学式の朝、先生に呼ばれ、新入生代表の挨拶をするように言われました。

その場で原稿を渡され、参列者の前で「いかに入学を心待ちにしていたか」を

言わされました。何故私が新入生の挨拶をするのかも聞かされないまま

ただ言われたとおりの原稿を読んだのですが、後になってわかった事は

私は、受験生の中で一番の高得点で入学したのでした。

毎年トップで入った生徒が新入生の挨拶をすることになっていたそうです。

私はそれをどこかから聞き、嬉しいという気持ちよりも

本当に志望していた学校を受けていれば、受かっていたのではないか、

という気持ちが先立ち、悲しい気持ちになったのを覚えています。


私の入学した学校は、幼稚園から大学までエスカレートであがれる私学で

とても校則が厳しく、男女交際も禁止されていました。

みんなが同じ事をしなければならず、軍隊のような雰囲気。

個性や人権さえも無視されているように感じたものです。

自分らしさを大切にしたいエニアグラムタイプ4の私としては

心のよりどころがなく、窮屈で仕方なかったのです。

学校では浮いた存在でなじめませんでした。

お弁当もしばらく食べられず、あと何日学校に行けば

夏休みになるんだろう、とカレンダーを数える日々でした。

友達はいましたが、心を開いて付き合うことは出来ませんでしたし

同じ中学の友人達は、他の学校で、自分らしくイキイキと

青春真っ只中!、という感じで過ごしており、

その子達と会うことも、つらくなってきました。

校則を守らない私は、毎日教育指導室に呼び出され、

みんなと同じ事ができない奴は、学校の恥だと言われました。


私は、学校外の所で気持ちのよりどころを探していました。

中卒の子や暴走族に入っている子、やくざになった子などと

付き合うようになりました。彼らはそれぞれの個性をそれぞれの形で表現しており

否定する人は誰もいない、一緒にいることでとても安心できる場所でした。

傍から見たら荒んだように見えていたかもしれません。

でも、私は自分の居場所を見つけるために必死でした。


そうこうしているうちに高校3年になり、大学受験を意識しだす時期になりました。

私は、大学は行きたいと思っていたので、勉強はしっかりやっていました。

学校からは、おとなしくしていれば大学にあげてやると言われていました。

他校を受験して、別の大学に出る道もありましたが、適当に言う事を聞き

適当にエスカレーター式で上にあがればいいやという気持ちになっていました。

相変わらず教育指導室通いの私に、先生は、「学校の言うとおりにしなさい」

「みんなと同じになりなさい」 そうすれば大学にあげてやる、と言い続けました。


エスカレーター式でしたが、一応大学への試験と面接がありました。

よっぽど頭が悪い子でないと落ちないと言われていた格好だけの試験でしたが

結果私は、不合格になりました。

当時の私は偏差値70以上あったので、素行が悪くて落とされたんだという事は

すぐにわかりました。

大人のやり方はこういう事か、と妙に冷静な気持ちで受け入れたのを覚えています。

最初から私を大学にあげるつもりはなかったんだと気づき

大人を信じた自分を責めたものです。(自分が甘いだけだったんですけどね)


不合格になったのがわかってから、一般受験までには2ヶ月ありませんでした。

途方にくれている時間はなく、それから受験の日まで一切学校には行かず

予備校通いの毎日でした。落とされた学校よりもネームバリューのある学校に

入って見返してやるんだ、という気持ちで朝から晩まで勉強したものです。 


結果、私は第一志望の学校に合格しました。

他の受験日と重なっていたため、父が合格発表を見に行ってくれたのですが

父から合格していた事を聞き、涙が止まらなかった事が思い出されます。



それからの私は、自分の人生を、自分で考え、選択することにこだわってきました。

誰かに与えられた人生は、誰かのせいにするものだし、

うまく行くのも行かないのも自分の責任として捕らえることができないからです。


自分で選んだ道、時には周囲に反対されるような事もありました。

でも、自分らしくあるために、自分が決断し、選択してきた道で

後悔した事は何一つありません。

むしろ自分で選んだ道は、何もかもがうまく行っていて、

周囲にもいい影響を与えることができていると思っています。


私は、高校生の娘にも、自分の人生は自分で選んで責任をとれ、という事を

話しています。時にはレールをひいてあげたいと思う事もありますが

物心がついている年であれば、ちゃんと考えられるし、選択できるのです。

親だって、子供の人生の責任をとることはできないのです。


プロフィール作成にあたり、高校時代のことは自分にとって大きなメソッドかもしれません。

一人一人の生徒をしっかり見て、個性を引き出し活かそうとしてくれる講師の浅野さん。

私の高校にもこんな先生がいたら、私の人生大きく変わっていたことでしょう。

大人になって、こんな先生に出会えた事だけでも、大きな大きな収穫です。

講座が終わっても、ずっと見ててもらいたいなぁ・・・・