「白夜行」読みました | Marc のぷーたろー日記

「白夜行」読みました

白夜行 (集英社文庫)/東野 圭吾
¥1,050
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ドラマ版 を観て、そのあまりに残酷で悲惨過ぎる内容に、しばらく体調を崩して寝込むほど(!)の衝撃を受けてしまった「白夜行」

ドラマ版感想

これまでも何度か原作を読んでみようと思ったことはあったのですが、ドラマの印象が強過ぎたこともあって、意識的に避けていたのです。それでも東野圭吾さんの最高傑作との呼び声の高い本作を、一度は読んでおくべきと思い、「意を決して」読んでみました。

Wikipedia「白夜行」


実際に読んでみての感想は…









素晴らしい!!



と、同時にやはりドラマより先に原作を読んでおくべきだったと激しく後悔…。間違いなく原作を先に読んでいた方が、この作品世界をより深く味わうことができるはずです。

とにかく、緻密に計算しつくされた構成の巧みさは見事としかいいようがありません。先にドラマで「ネタバレ」しているため、謎解きのワクワク感を楽しむことはできませんでしたが、それでも徐々に「真相」に迫っていくくだりは、「見てはいけないものを見せられた」ような怖さで手がぶるぶる震えてしまいました。

ドラマとは異なり、比較的クールに展開するため、読み終わって廃人化することはありませんが、それでも何とも言えないやりきれない思いと暗澹たる気持ちでいっぱいになります。

何のためらいもなく最後の選択をした亮司の心境は…。そしてそんな亮司の姿をその目で確認した雪穂の心境は…。そもそも、わずか 11歳にして 2人が「モンスター」になることを選択せざるをえなかった社会、そしてそんな社会を形成している大人たちの責任は…。あまりにも考えさせられることが多すぎるのです。


ところで、実際に読むまでは、ドラマと原作は「別物」という話ばかりを聞いていたので、もっと違っているのかと思ったのですが、時代設定の違いによって細かいところに違いはあるものの、個々のエピソードはかなり原作と同じ。セリフも同じところが多々あります。

原作とドラマの違いを非常に簡単に言ってしまえば、原作は、亮司と雪穂の周りで起こる数々の謎の凶悪事件を、客観的に周りの人物の視点で描き、一方のドラマは、同じ事件を亮司と雪穂の視点で描いているということ。もちろん違いは視点の違いだけではありません。

原作では亮司と雪穂の心理描写が一切なく、また事件の真相も事件を追う側の「推測」に過ぎないため、読者が自由に「解釈」する余地が多々あります。そのため、当然ながら読者の数だけ異なる解釈があってもおかしくはないわけです。

ドラマ版で描かれたのは、あくまで石丸プロデューサと脚本家の森下さんの 2人による「1つの解釈」。言ってみれば、原作が「問」を提示し、複数ある「解答」のうちの 1つをドラマが提示したといったところでしょうか。したがって、2人の解釈と自分の解釈に大きな隔たりを感じた人にとっては、ドラマ版「白夜行」がとても受け入れることのできない作品になってしまっているのも仕方のないことだと思います。

確かに僕も実際に原作を読んでみて、ドラマ版の解釈に違和感を感じたところがなかったわけではありません。ドラマは原作に比べて感傷的で扇情的、また亮司と雪穂の「悲劇」を前面に出し過ぎるあまり「お涙ちょうだい」に走ってしまっている部分はあったと思います。特にドラマの終盤に出てくる「子供」のエピソードは原作にないものですし、なくても良かったかなぁとも思います。

それでも、原作にある様々な要素・側面の中から、原作の「1つの解釈」として、亮司と雪穂の切な過ぎる「共生関係 = 究極の愛 (という解釈)」をピックアップして膨らませ、更に「罪と罰」の物語として作り上げられたドラマは、緻密な計算の上で成り立っている原作に比べて細かい点で破綻しているところはあるものの、それはそれで「あり」だと思うのです。

ですので「白夜行」は、原作を読んでからドラマを観て、その上で再度原作を読むと、別の視点で新たな発見があるのではないかと思います。


原作を読んでいて最も胸が詰まったのは、ドラマでネタばれしているせいもありますが、心理描写の全くない亮司と雪穂がついこぼしてしまった「本心」と思われるセリフ。これはドラマでもほぼそのまま使われていますが、このような本心が垣間見られる描写が原作ではほとんどないため、このわずかなセリフが、一層、切なく感じられるのです。
(文庫本 436ページ)
「昼間に歩きたい」
「俺の人生は、白夜の中を歩いてるようなものやからな」

(文庫本 725ページ)
「男の人をどう愛すればいいのか、よくわからないんです」

(文庫本 826ページ)
「あたしはね」「太陽の下を生きたことなんかないの」
「あたしの上には太陽なんかなかった。いつも夜。でも暗くはなかった。太陽に代わるものがあったから。太陽ほど明るくはないけれど、あたしには十分だった。あたしはその光によって、夜を昼と思って生きてくることができたの」

それにしても、実際に原作を読んでみて改めて感じたのは、主人公の心理描写が全くないなど、様々な点で映像化に不向きな形式で描かれ、しかも残酷で悲惨過ぎる問題作を、よくドラマ化しようと思ったなぁということ。また、単に残酷なだけでなく、過激でセンセーショナルな性描写に重要な意味があるために、それを描かないわけにはいかないものの、そのまま描いてしまっては単なる下世話なものにもなりかねませんし、そもそも凶悪な犯罪者が主人公なんていうドラマを、テレビ局もスポンサーもよく許したなぁと思います。

もちろん、メッセージ性の高い社会派の人間ドラマとして、映像化することによって 1人でも多くの人に伝えようと考えるのは分かります。また、そもそも長編なので 2時間程度の映画にすることは不可能ですし。

そんなテレビドラマの様々な制約の中で、原作のミステリー色を完全に排除し、「究極のラブストーリー」に改変したことで、多少なりとも「お茶の間」向けにできたことは確か。特にドラマのキャッチコピー
愛することが、罪だった。
会えないことが、罰だった。
は「白夜行」(を亮司と雪穂が愛し合っていると解釈した場合) の切ない愛を的確に表現した秀逸なフレーズだと思います。ただ、このような「ラブストーリー」部分が前宣伝の段階で強く前面に出すぎたために、単なる「(キレイな) 純愛ドラマ」と誤解して、それを期待していた視聴者が、ヘビー過ぎる内容についていけなくなってしまったのは残念です。それでもドラマは、「キレイ」ではありませんが「美しい」純愛ドラマだったと僕は思います。


さてドラマ化にあたっては亮司と雪穂の配役に対しては、いろいろと異論はあったようですが、ドラマの山田孝之くんと綾瀬はるかちゃんの配役は原作を読んだ上でも「悪くない」と感じました。

少なくとも綾瀬はるかちゃんは文句なくピッタリだと思います。輝くように美しい「美女」であり、凛とした強さの中に男の保護本能をくすぐるような弱さを匂わす色気。本当は強く逞しい女でありながら、表面上は弱さを垣間見せることができるしたたかな雪穂の姿は、原作を読んでいる間も僕にはドラマで雪穂を演じた「綾瀬はるか」以外にイメージすることができませんでした。

そして山田孝之くん。原作をストレートに読むと、もうちょっとシャープで強いイメージの大人っぽい容姿の役者さんの方が合っているとは思うのですが、それでも僕は山田くんの亮司にさほど原作とのギャップを感じませんでした。確かに山田くんの亮司に対して批判的な人が言うように、ドラマの亮司は原作の亮司に比べて見た目も含めて「弱過ぎる」かもしれません。しかし原作でも亮司の「真の姿」は全く描かれていませんし、またドラマの亮司も雪穂以外の人物といる場面では原作同様「何を考えているか分からないクールで不気味な男」として描かれていることから、僕はドラマの亮司も充分に「あり」だと思います。でも当時の山田くんよりも今の山田くんの方が、より「原作の亮司らしく」演じられるような気はしますけどね。


原作を読んだことで、原作の素晴らしさを知ることができたと同時に、原作とドラマの間で相互に補完する描写などに新たな発見もあり、またこの「難しい」原作を独自の解釈で映像化したドラマ版の良さも再確認できたような気がします (^^)

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