韓国“1万7000人虐殺” | 今日の韓流通信(旧)

韓国“1万7000人虐殺”

これは、韓国の警察庁に設置された「過去の歴史真相究明委員会」が14日、発表したものです。それによりますと、1950年にぼっ発した朝鮮戦争の当時、韓国の警察や軍が右翼団体の協力も得て、民間人1万7000人以上を司法手続きなしに虐殺していたことが確認されました。この人たちの中には、北朝鮮を支持する団体にいた活動家などのほかに、左翼的とされた活動にかつてかかわったことのある人や、中にはそうした活動とは無縁とみられる人も含まれているということです。当時の朝鮮半島では、南と北が独立後、思想的に激しく対立する中で、韓国のイ・スンマン政権は北朝鮮を支持するような左翼勢力の活動に神経をとがらせていました。「真相究明委員会」では、今回の結果が警察に残されていた資料だけに基づいており、実際の犠牲者の数はさらに増える可能性もあるとしています。「過去の清算」を掲げるノ・ムヒョン大統領は、国防省や情報機関などにそれぞれ委員会を設置して、朝鮮戦争時や軍事政権下で起きた未解明の部分が多い事件の検証に取り組んでいます。


【ソース】NHK

http://www3.nhk.or.jp/news/2006/09/15/d20060915000035.html


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1万7000人の虐殺ですか。


さすがですねグッド!


宗主国様ゆずりの虐殺文化ですから、この程度は想定の範囲内。


戦後、自国内でこれだけの虐殺事件があります。



1945年 ハンセン病院虐殺事件   84名

1948年 済州島事件        6~7万名

1948年 麗水・順天反乱事件   5000名

1950年 国民保導連盟事件    30万名

1950年 大田刑務所虐殺事件  1800名

1950年 国民防衛軍事件     数十万名


■戦後韓国の虐殺事件

http://ameblo.jp/maokapostamt/entry-10012996930.html



玉麗が調べただけでこれだけ存在します。


実際、朝鮮戦争中だともっとあったと考えられます。


しかも、その後、ベトナムまで行って虐殺しています。




■金の為に参加し、虐殺を繰り返したベトナム戦争


 1960年代に南ベトナム政権とベトナム解放民族戦線(北ベトナム)が激突した。南ベトナムを擁していたアメリカは防衛の名目に大規模な軍隊を派遣し、北ベトナムも共産勢力を味方に付けて対抗した。
 このとき、アメリカ軍に派兵を申し出たのが韓国である。日本との関係が途切れアメリカとも関係が悪化していた韓国は、当時は世界最貧国の一つであった。だから外貨欲しさに派兵を進言し、見返りに莫大な金をアメリカから受け取った。
 実際に8年間で延べ30万人も派兵し、10億$もアメリカから金を受け取っている。さらに北ベトナム軍に首都を占領され、アメリカがベトナムから撤退したのだから、事実上の敗戦である。そして勝利した北ベトナムから見れば、韓国は明確に侵略国である。
 4年間の太平洋戦争をあれだけ激しく糾弾するのに、自分たちの8年間の侵略行為は知らぬ存ぜぬで惚ける……これが韓国である。さらにベトナム派兵は1999年まで韓国内ではほとんど論じられていなかった。20年間も韓国人の大人は全員が口を閉ざして隠蔽しあっていたのである。
 韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
 現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
 歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
 生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
 グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
 当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
 韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。
 硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
 防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。
 「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
 こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
 チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
 グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
 そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。
 虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
 「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる
 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
 それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
 だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
 虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。




無かった事で日本に謝罪と賠償を要求するより、ベトナムに謝罪と賠償をして、教科書にも事細かく記述する方が先では無いでしょうかねはてなマーク


↓ベトナム人と韓国人の民度の差↓

面白いベトナム人と韓国人の会話(enjoy koreaより)

http://ameblo.jp/maokapostamt/entry-10007458232.html




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