戦後韓国の虐殺事件 | 今日の韓流通信(旧)

戦後韓国の虐殺事件

■ハンセン病院虐殺事件 1945年8月21日


ハンセン病の隔離施設「小鹿島」で園運営をめぐっての対立で朝鮮人職員らにより入所者患者中自治会員ら84名が虐殺されます。
しかし、まだ朝鮮に駐留していて、武装解除していなかった日本軍が緊急出動し24日には鎮圧されました。


■済州島事件 1948年4月


解放後、島の人口は帰還者を含めて約30万人でした。
共産党系の人民委員会が島民の間に大きな根を張っていて、1948年当時の南労党員は6万人程度。
島民の80%が南労党支持。
最悪な事に、対アメリカ戦に備えて旧日本軍が島を陣地化していて、それが残っていた。
4月3日深夜、旧日本軍の武器を手にした武装グループが蜂起。
韓国で一番高い山と、その山の千数百の洞窟を使い、ゲリラ戦を行う。
韓国軍(アメリカの支配下なので「国防警備隊」)により、鎮圧。
韓国政府は、正確な被害者数を未だに公表していない。
韓国政府の発表では、 「共産主義者の手により」死者 一万五千人、400の村のうち、300が被害を蒙った。
二万戸の家が火災で焼け、六万五千人が家を失った。と、されている。
政府関係者が口にしているのは死者六万人~七万人。
反体制の人々は死者十万人以上を主張していた。
アメリカ人学者ジョン・メリルは「正確な事は解らないが、死者は3万人あまり」と記している。


■麗水・順天反乱事件 1948年10月


済州島事件の鎮圧に赴くはずだった第14連隊の1個大隊が反乱。
10月21日 反乱部隊包囲される。
10月22日 順天鎮圧。
10月27日 麗水鎮圧。
反乱軍は人民裁判により、400人以上の警官やその家族などを殺害した。
鎮圧軍は、順天町民5000人を順天北国民学校の校庭に集め(中略)、人民裁判に積極的に参加した者を一級、消極的に参加した者を二級、曖昧な者を三級とし、反乱軍と一級をその場で棍棒で殴り殺した。


■国民保導連盟事件 1950年夏


韓国各地で、無抵抗で非武装の国民、合計30万人が虐殺。
殺されたのは国民保導連盟の人達。
国民補導連盟とは、今まで厳罰一辺倒だった共産分子への対応を改め、自首期間中に、共産党の甘い言葉に騙された人は、自首して国民保導連盟に所属すれば、罪は問われない、としたもの。
しかし、人民解放戦争(朝鮮戦争)勃発と共に、韓国人によって全て虐殺された。


■大田刑務所虐殺事件 1950年7月始め


朝鮮戦争勃発直後の1950年7月初め、韓国の軍と警察が、大田刑務所の収監者約1800名を銃殺していたことが、このほど資料的に裏付けられた。このことは、2000年1月5日、韓国マスコミが、機密指定解除されたアメリカ国立公文書館の文書から「処刑」が確認されたと報道したことにより、明らかになった。


■国民防衛軍事件 1950年冬


死者 数十万人。(詳細は、東亜日報にて連載された。)
中国の人民解放軍が”義勇軍”として介入すると、米韓軍は南に退却した。
このときに、北朝鮮の占領地域に青年達を残してゆくと、北朝鮮側に使われる事になる。
敵を利してはならない。というので、これらの青年を狩り集めて、南に連れて帰った。
この時の受け皿となったのが「国民防衛軍」であった。
しかし、南に連れて帰るとはいっても、輸送手段も無く、宿泊施設も、食料も、衣類も、寝具も無い。
酷寒の中を、ただひたすらに、南へ南へと進んだ。通称「死の行進」「死の南下」数十万人が死んだと言われている。


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韓国人による韓国人の虐殺事件いろいろ。



他にももっとあると思われ。



まあ、結局は同族同士の内ゲバなんだけどね。



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