サイレントを模す。それが故に、より過剰な演出を施す。
例えば、完成披露試写において観客の拍手を待つ一瞬。
「音」がないことを意識したその演出は、むしろサイレント的ではなく、トーキーを既に知った者が施す演出であろう。
それが成功しているのかいないのか、サイレント映画をそう観ているわけではない私には判断がつかないのだが、その過剰さはよくわかる。
同時にこの映画は「声」や「音」を奪われた者の妄執を描き出す実験映画であり、メタ・サイレント映画でもある。
苦悩するスターの脳裏に様々な人々が話す様が多重合成によって示される。サイレント映画によく見られるこの技法にあって、しかしサイレント映画と異なるのは、描かれるのが様々な人間の声の重圧ではなく、喋らないこと、声の不在による重圧であることだ。
主人公を救う「声」をもたない犬、流砂にのみこまれ「声」を切断される芸術映画、鏡の中と外にいる共に声をもたない私、「何か話しましょうよ」と言いながらコミュニケーションが断たれた夫婦。
つまり、この映画は「声」や「音」を映画がどのように対処したかについての考察、知的な企みに満ちた映画というわけだ。
しかし、この「知の企み」によって損なわれるのは、実際に描かれている事物の真の有り様であり、実相がもたらす映画の力である。
例えば何度もテイクを重ねるうちにしだいに男女の関係が深まって行くシーン。そこに見えるのは彼らの心ではなく、何度もテイクを重なる、という演出でしかない。「映画」は一目惚れや、恋する者の心を一瞬で描き出せる力を持っている。しかしミシェル・アザナヴィシウスはその力を無視し、メロドラマを放棄し、ただ過剰な演出を選択する。
そして心躍るミュージカル。その冒頭はカチンコが形作り、それまで聞こえなかったタップの軽快な音がスクリーンを彩る。しかし、そこには肝心のダンスがない、踊る者の肉体がない。あるのはメタ映画としての巧緻な戦略である。
そんなもんを私は「映画」で観たかない。