スーパーチューズデイ〜正義を売った日〜 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

ライアン・ゴズリングが、クルーニ兄に心酔し理想の政治を求めるナイスガイなのか、自身の野心の実現を図るために手練手管を弄するアンチヒーローなのか、今ひとつよくわからぬ。

クルーニ兄の堕胎騒動の尻拭いをしててやんなったのか、彼はフィリップ・シーモア・ホフマンの正論、実に正論、お前はあかん的正論に、これまでの理想主義はどこへやら態度を豹変するわけで、これはわからぬ。観客は、このチンピラが何言うとる、と思うだけで、クルーニ兄はこのチンピラにパンチをくれるべき、いや、イーストウッドなら確実にパンチbyカメラ目線をくれてたはずだ。

つまり、政治のあれこれに現実的、実務的ではあったものの、本質は理想主義者であった彼の変容を映画は描ききれていないわけだ。その変節点、ハリウッド映画脚本術で言うところのミッドポイントはクルーニ兄に中出しを決められ一発で妊娠してしまった女性の堕胎エピソードなのだろうが、それを彼女の感傷芝居で片を付けていいのか。

選挙マネージャーの末端として働く彼女はクルーニの子供を宿すが、ゴズリングから堕胎を強引に迫られ、仕方なく、というか、ま、そういうもんだろ的に堕胎をする。映画は彼女の失意をえんえん描く。えんえんと言っても5カット程、彼女の身を案じ車を走らせるゴズリングとカットバックされるわけだが、実に退屈かつ愚劣。

お話の変節点を描くにあたって、このシーンはどうしてもいるだろ、彼女の悲しみとそれをもたらしたゴズリングの後悔、自責の念が後の展開に必要なわけだから、どうしてもこのシーンはいる。と、クルーニはじめ、いろんな人が考えたんだろうが、それは文字ベースの話であって、映画ではない。やるべき仕事は、彼女の話ではなく、彼の変化である。その媒介としての彼女の話に尺をとり、観客もスタッフも監督も、誰も求めていないおざなりで退屈な絵を挿入してどうするよ。

この映画はそのような文字ベース、お話ベースで必要な絵、それを埋めるための退屈な絵であふれている。そしてゴズリングの芝居はそれを追従する。目玉をぎょろぎょろさせるか、ため息をつくええかっこし芝居、あるいはどえらく意味ありげな無表情、この3パターンのみの生硬で一本調子、お話に基づく求心的な演技ででふくらみに欠ける。しかも、この男、どうも悪党面で、そういえば「完全犯罪クラブ」でこいつ実に嫌な役だったよなぁ、と思い出した。
ホフマンとポール・ジアマッティ、マリサ・トメイら名優陣(いささか型にはまったキャスティングとはいえ)を揃えているだけに、この人の芝居の駄目さが目につく。

私が観たかったのは、誰がこれをした、だからわしはこれをするけんのぉ、ほんじゃわしはこれじゃ、なんならそうくるんかいの、したらわしはこうじゃ吐いた唾飲まんとけよ、牛の糞にもだんだんがあるんで、いや映画は、人間は、政治つうんにだんだんはないんで、というドラマだ。つまり「仁義なき戦い 代理戦争」なわけだ。

ある人物が策した行動が、その思惑とは別に転がりはじめ、さらにそこに思いがけない事態が巻き起こり、また新たな策を巡らすが、ところが…、みたいな映画、つまり政治映画だ。
お話の先は誰にも読めぬ、誰も望まぬまま事態はエスカレートし、唐突に生起した事態にうろたえ、その中でやがて人間的な要素は希薄になり「政治」が浮き彫りとなる。
しかし、この映画は、政治を陳腐なメロドラマに堕してしまうのだ。