カウボーイ&エイリアン | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」を観て、いかに映画の面白さを追求するか、その極め方とその難しさを改めて思い知らされたわけだが、そんな時「カウボーイ&エイリアン」のような中途半端なもんを観せられた日にゃ、ほんとに腹立つわけよ。

そんなに君たちは今の世の中で西部劇をちゃんとやってるんが嬉しいのか?それは縮小再生産なだけではないのか、というロン・ハワードが出始めた頃、80年代の亡霊が蘇る。イーストウッドがやったことは何だったんだ。

西部劇を今どきちゃんとやるってのが、素晴らしいってのはわかる。いや、ホントは全然わからないけどわかるってことにするが、この映画の駄目なとこは、それでいいんじゃんで止まり、本気でカウボーイ&エイリアンを観せてくれないからだ。

この映画の予告編を観て、アメリカ映画ってのはいろんなことを考えよんなぁ、とその企画力に感心したのだが、そのとき、私が期待したのは、馬とレボルバーしか持たないカウボーイが、高度な科学力を有すであろうエイリアンとガチンコで戦う様であった。カウボーイたちは知恵と勇気だけでエイリアンに対するであろう、そして人類の歴史にエイリアンが介入したことで何かが起きたり、何かが起きなかったりするであろう、その期待であった。

私が期待しようがしまいがどうでもいいのだが、少なくとも、エイリアンはインディアンの代わりではないはずだ。単に、アクションシーンの幅がほんの少し広がるだけのものでいいはずはない。

映画の面白さを考えてなくはないか。ホントに面白い映画とは何かを考えず、ただ「西部劇」を模倣する、こんなもんでいいんじゃんと客を舐める、クライマックスは敵の基地に攻撃だぁ、と今どきの007ですらしないことでお茶を濁し開き直る。これでいいのかロン、これでいいのかスティーブ。