猿の惑星:創世記 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

素晴らしく興奮した。(誰も褒めなかった)クーデター映画「ワルキューレ」と同質の興奮だった。

とはいえ、クーデターと革命が決定的に異なるのは、革命が参加する人間の意志の合意を必要としていないということだ。クーデターは主に軍事のプロフェッショナルたちがある大義に賛同しコトを起こし、彼らのみによって事態は進行する、極めて閉鎖的なシステムだ。
一方で革命は、コトの発端はどうであれ、人々は「革命」なるものののっぴきならぬ事態を目撃するやいなや、個々人の意図を超えて、それに参加せざるを得なくなる。

適切な映画が思い浮かばないのだが、例えばジョン・ヒューストンの「勝利への脱出」で最も感動的だったのは、ペレ(だったかどうか忘れた)が逆転のゴールを決め、スタジアム中の民衆がフェンスをなぎ倒しグラウンドになだれ込むシーンだった。
彼らは「革命」や「反乱」など意図しておらず、また捕虜である選手たちを救おうと思ったわけでもなく、ただ眼前に展開したとんでもない事態に思わず行動してしまったのだ。

個々人の意志や想いや気持ち、大義や理想を超えて、思わず行動したことが、国家を転覆させるに至ること。あるいはその途方もない事態になす術なく立ちすくむこと。

この映画で革命の首謀者、猿のシーザーが言葉を発する。泣ける。しかし、真に感動的なのは、この言葉を聞いた青年が「He spoke」と呟くことだ。猿たちによって監禁された青年は猿が話したという事態を偶発的なものと受け止めるのではなく、その事態がエスカレートするであろうこと、人類は猿に屈するであろうことを瞬時に予測し恐怖している。それは私たち観客と同様だ。私たちは言葉を発した猿の1ショットに映画の暴走を感じた、映画のホントの面白さに畏怖したのだ。

そして特に知能があがったわけでもない動物園の猿たちもまたこの「革命」に参画する、人類は猿の集団脱走事件ではなく「革命」として彼らに対することとなる。そのエスカレートぶりこそが素晴らしい、のっぴきならぬ事態だけを伝える、その「映画」っぷりこそが素晴らしい。葉っぱをまき散らし樹々を渡る姿、動物園の柵を槍に見立てすっくと立つ猿たちの勇姿を見よ。

そして猿たちは橋を渡りはじめる。これを加藤泰的、山中貞雄的と言わずして何と言うのだ。猿が攻撃をしかけるまでの一瞬の間と、霧、駈けてくる無人の馬。コスタ・ガブラスみたいとも言うが。

ここで私は「加藤泰」の名を恐る恐る出してみたのだが、それは猿たちが橋を渡るからだけではない。

以前、ラピュタ阿佐ヶ谷で加藤泰特集が行なわれた時、加藤泰に冠せられたキャッチフレーズは「憤怒と叙情」であった。
例えば内田良平と同様に、シーザーの行動原理は「怒り」である。映画研究塾はシーザーの「その表情が非常に心理的である」ことに苛立つわけだが、いや、シーザーはそう深いこと考えてるわけじゃないっす。だって所詮、猿。ただ怒ってるだけっす。「反乱を起こす理由」はただ怒っただけっす。そのシンプルな怒りが国家を、人類の歴史を覆すに至る。その怒りの様の素晴らしさ。

怒りだけが満ちている、映画はその怒りをただ捉える。シーザーはウィルス入りの薬剤を散布する、そのローアングルのキャッチーかつ強いショット。ボス猿を殴り倒す一瞬の暴力、クッキーが放り込まれる餌箱、餌を求めて突き出される猿の手、収容所を我が物顔で歩くシーザーを捉えた横移動。
そして怒った猿は止められぬ、かくて「革命」が勃発する。

ただ惜しいのは、彼らが目指すものが「森」であることだ。彼らは人類の歴史を断ち切り、猿の歴史を開始しようと画策したわけではなく、ただ森を目指したのだ。森の中で遊ぶ自由が欲しかっただけなのか君たちは。女々しいぜ。がっくし。
やはりここはホワイトハウスに向かうべきであった。ウィルスで人類が滅びるのではなく、あくまでも戦いの中で猿たちは勝利してほしかった、と思う。そしてホワイトハウスに窓枠マークの旗を掲げるべきだったのだ。惜っしいいいいいいいいいい。