とんと映画を観てないけれど その2 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「ウォールストリート」
反目していた娘と父がパーティーで偶然出会う。差し障りのない会話を続けるものの、やがて娘は耐えられなくなりパーティーを抜け出す。父は彼女の後を追い、パーティー会場外の階段に座っている娘を見つける。
視点の主を父、マイケル・ダグラスに据えていたのか、娘、キャリー・マリガンに据えていたのか、あるいは第三者的に父と娘の成り行きを見つめるシャイア・ラブーフに据えていたのかは、もはや記憶にないが、ここまではオリバー・ストーン、ルーティンに演出していたように思う。

続いて反目する父と娘は和解するだろう、そして父なり娘なりが階段に腰かけ、二人は並んで会話を続ける。それを見守る娘の恋人、その見た目のロングショットでこのシーンは終わるだろう。それをルーティンに撮り上げ、父なり娘なりが腰掛けるタイミングを考えとけば、とりあえず演出の仕事は果たしたこととなる。割とそういうもんだ、後はカメラがキレイに撮ってくれる。

ところが、この後の父と娘の会話がどアップの切り返しのみで綴られ、それはま、昨今のハリウッド映画だからいいとしても、驚いたのは、娘と対峙するダグラスのアップから娘の隣に座る彼のアップへと、アップショットのままカメラは無理くり動いて、執拗に1カットアップのみで押し通したことだ。しかも背景はキレイにぼけた望遠風のショットだから、フォーカスにしろ、ハンドリングにしろ技術がいる。単にマスターショットの後、さぁアップお願いしまーす、てなわけにはいかないだろう。じゃ、このアップアップに何の意味があるのか。

それがない。

あるとすれば、マイケル・ダグラス、ノッテっからさぁそのまま行った方がいいんじゃない、スターの魅力でいっちゃいますか、くらいな話だと思うのだが、この映画、それがいい。というより、それだけで見せる。
マイケル・ダグラスありきで話が進み、話が落ち着き、やたらノリまくり。彼に相手する老練役者陣もノリまくり。観客はただそれを楽しめばいい、という。だから、最後の最後に彼が水戸黄門風に登場した時は拍手もんでありました。これだこれだ、スターをみせるために映画はある。こういうのもありだ、と。

「キックアス」
実は全然ノレず、しかし周囲の信頼すべき筋からも絶讃評しか聞こえてこず、自分のこの手の映画への鑑賞眼を疑いもしたのだが、二回目見ても(妻が借りてきたDVDな)やはりノレず。

少女が悪人殺しまくる、あるいは、疑似ヒーローに対する言い訳で映画の全篇ができてるような面倒臭さがこの映画にはないか。
「ウォールストリート」でオリバー・ストーンがみせた、これでいいんじゃん的な開き直りと、それに対する絵の強さに欠けていないか。例えば、ニコラス・ケイジが秘密の武器をネットで見て「おおお」と昂奮する、その時のケイジのつぶやき、その表情やアクセントがもたらす、シナリオには書き込んでいない盛り上がりを、演出はもっと信じるべきではないか。