グラインドハウス その2 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

ロドリゲスに続いて予告編三本。

「ナチ親衛隊の狼女」ロブ・ゾンビ
「Don't」エドガー・ライト
「感謝祭」イーライ・ロス
一番笑ったのは、某吸血鬼好き大スターと、ロディ・マクドウォールのそっくりさんの登場。
ただし、一番出来がいいのはギャグの豊富な「感謝祭」か。「Don't」の繰り返しというアイデアのエドガー・ライト篇がこじんまりとまとまり一番つまらない。

というわけで、真打ち、クエンティン・タランティーノ「デス・プルーフ」

前半の長い会話とソウルミュージックえんえんは「bomb」ムービー、どうしようもないトラッシュムービーへのオマージュか。
しかし、ほとんど機械的にカッティングされるそのリズムが妙に楽しいし、不意に挿入されるロングショットの叙情や、カート・ラッセルのノリノリ、足フェチ・けつフェチショットが素晴らしい。

そして(こんなこと書くと「甘い」とか「馬鹿じゃねーの」とか言われそうなのだが)この娘たちが一瞬でこの世から消え去ってしまうことの痛み、助手席娘の残酷、ビザールな瞬間。

それが後半の素晴らしき痛快へとつながっていく。
女子スタントマンチームの登場に、そっか、お前らが殺ってくれるのか、バトってくれるのか、と。

その期待感、ワクワク、高揚感。
わっしょいと殴り込むマキノの、ゲームのようにダイナマイトを投げるホークスの、ハイタッチをするアルドリッチの痛快。これぞ映画なり。

聡明かつ献身的なさる知人の言をかりると「タランティーノがちゃんとしてる」感が、いかにもタランティーノ的に現れているのだ。

「バニシングポイント」のように(というより東映アクションのような)カーチェイスだから、「ファスター・プシィキャット」の娘たちだから、「テレフォン」を引用するから素晴らしいのではない。
そのようなメタ映画レベルを超えて、この映画の中の物語に盛り上がることが素晴らしいのだ。

様々な固有名詞を引用することでオマージュを捧げるのではなく、映画の持つ幼児的、原初的な喜びを露にすること、それこそが「グラインドハウス」ムービーへの最大のオマージュなのだ。