グラインドハウス その1 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

3時間弱、二本立てのUSAバージョンを観た。

スタンリー・ドーネンの晩年の作に「ブルックリン物語」という映画があって、それはフェイク予告編を中編二本で挟むという「グラインドハウス」と同趣向のモノだったのだが、今回はロドリゲス篇、タランティーノ篇が明確に独立した一本としてあるので、特に二本続けてみる趣はそうないかもしれない。予告編がどうなるのかは別として。

ま、それはどうでもいい話。

まず予告編。
「マチェーテ」ロドリゲス
イタリアンアクションを無理くりメキシカンに仕立てた感じ。「メキシコ人を馬鹿にするな」ってのが笑えます。

そしてロドリゲスの「プラネット・テラー」。
キャラクターがそれぞれこの映画の物語より大きな世界に生きている、「データベース化されたキャラクター」(@東浩紀)であり、それだけにこの映画が抱く物語は拡散され、希薄なものとなる。

確かに、片足マシンガンで走る横移動やどーんとジャンプ、ヘリコプター・ゾンビ百人切りなど、嬉しくも素晴らしいに違いないのだが、それはやはり物語としての面白さではない。
各キャラは物語の外に依拠し、スペクタクルはそれ自体として存している。
よーするにごんごんに盛り上がらないのだ。

と、「キル・ビルvol1」を観たときと同じようなことを書いているのだが、このへんがロドリゲスの面白くもあり、限界なんだろうな、と。

ところが、タランティーノもまた同様であるにもかかわらず、「デスプルーフ」、これがもぉ盛り上がりまくりなわけなのだが、それについては次回。