簪 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

昔の映画を観る時、物語にまつわる様々なこと、その不整合や感情移入やらなんやらは、ひとまず棚上げにし、無意識にしまいこみ、とりあえず、それはそこにある、そーゆーものだ、として観るのが普通の態度ではなかろうか。

例えばマキノの「血煙高田の馬場」を観る。志村喬のあちゃらか演技がうざくてうざくてうざくて、でも、そーゆーものか、と思っていたら、皆さんご存知のとおり、阪東妻三郎が決闘の場にまさに走ろうとする瞬間にそんなことはどうでもよくなる。

しかし、きっとそれは、古さを帳消しにする1カットの強度といった優劣の問題ではないのだ。志村喬のうざい芝居も阪妻の驚異の芝居も映画の中では同等にあり、一方が一方に勝っているがためにすべてが許される、という問題では決してない。

じゃ、何なんだ、というのはまた別の話として
清水宏の「簪」なわけだが、これまた古い。

怪我をした笠智衆がリハビリのために、一生懸命歩くのを子供たちが「がんばれがんばれ」と励ますのだが、これが、もぉ、三回も、四回も出てくるからさぁ、観るに耐えぬ。

すごくいかんと思うのは、それらの「がんばれがんばれ」シーンが現在はもちろん、30年代当時であっても紋切り型でしかないでしょう、ということ。物語性がもともと希薄な映画に、清水宏が安易にもちこむ30年代の紋切り型がかなりつらいのだ。

もちろんそんなことはどうでもいいのだ、と、「笠智衆が渡る橋を俯瞰気味に捉えた1ショットがすべてを許す」のかもしれないし、田中絹代が笠智衆の動きを模倣するラストの感動がその古さを帳消しにするのかもしれない。でも、小津や成瀬やマキノはどうなのだ、と。
いや、比べるのは卑怯だよ、と言われても仕方がないのかもしれんが、
う~む、清水宏、もの凄く古い。

簪   1941年(S16)/松竹大船/白黒/71分
■監督:清水宏/脚本:長瀬喜伴/原作:井伏鱒二/撮影:猪飼助太郎/美術:本木勇
■出演:田中絹代、川崎弘子、斎藤達雄、笠智衆、日守新一