ブライアン・デ・パルマ | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

中学二年生の時に「愛のメモリ-」を観て、一気にファンになった。
というより、これで本格的に映画に目覚めたといっていい。ヴィルモス・ジグモントのフォギーなカメラ、ビジュルドの可愛さ、トリッキーな演出に、緊張で身動きが取れない状態。
映画の感動というのは、泣くとか、怒るとか、怖いとか、そーゆーあれこれを超えた極めての肉体的な体験なのだ、と生まれて初めて思ったのだ。これは一生ものであった。

というよーな恥ずかし体験は、ま、どーでもいいが、デ・パルマである。

もうすぐあの「ブラックダリア」ってんで、公開以来になる「殺しのドレス」を無性に観たくなった。
で、観た。

有名な美術館のシーン。お前は馬鹿か、恥ずかしくないのか、といったあまりのヒッチコックぶり。心理を映画に示すとこうなりまっせ的な、いかにも演出。だけど、心理だのなんだのじゃなくて、これがやりたかった、つうのがど~んと出てるあたりが恥ずかしい。
ヒッチコックがもともとそうなのだが、なんつうか、普通の映画文法とは外れた、さぁやりまっせ的、というか、子供がうふふ、と言ってるようなコトを、臆面もなくやるのだ。

公開時はそれに魅了され、大学時代は馬鹿にし、「アンタッチャブル」やその前のなんとかいう「りらっくすざどぅうえ」みたいな曲のかかるやつを観たときは、こいつは本気で頭が悪いとさえ思ったのだが、年月は人を大人にするね。

いや、すごく面白い。懐かしい。
初心に返ろうよ、無邪気に映画を見ていたあの頃に帰ろうよ、というのをノスタルジックな文脈とは違うところで、まさに発見した感じ。これは自分でもびっくりするくらい、感動した。映画というのは、こういう恥ずかしいことの集積なのだ、と。よし、頑張ろう、と思ったのだ。

ありがとうデ・パルマ。明日は「フューリー」を観るぞ。


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殺しのドレス スペシャル・エディション