思惟と存在 2 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

信仰の対象は他者の現実性である。
その関係は無限に関心を持つという態度である。
信仰の対象は教理ではない。
なぜならもし教理だとすると、その関係は知的なものとなり、余計な手出しをすることではなく、知的な関係の最高点を達成することが問題となるからである。
信仰の対象は、ある教理を教える教師ではない。
なぜなら教師がある教理を教えるという場合には、ただちにその教理が教師よりも重要となる。
そして関係は知的なものとなり、そこでは余計な手出しをすることではなく、知的関係の最高点を達成することが問題となる。
むしろ信仰の対象は、教師の現実性である。
すなわち、その教師が現実そこにいるということである。
したがって信仰の答えは、絶対的に然りか否かのどちらかである。
なぜなら信仰の答えは、教理に、つまりその教理が真であるか否かにかかわるのではない。
信仰の答えは、彼が現実にそこにいたことをあなたは承認すのかという、一つの事実についての問いに対する答えである。
そしてよく注意すべき点は、その答えが無限の情熱によってあたえられるということである。(哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき)より
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はい、まだ1よりわかりやすいかと思います。

何が言いたいかざっくり言えば、

信仰の対象とは

「何を教えてるかという内容でもなく、
誰が教えてるかという人物像でもなく、
その人物に対して『神』に触れた事実、その現実性なのです。

人間が人間を信仰の対象にすれば、美と倫理に頭打ちをくらう有限な存在となります。
つまり、欠点があるからこその人間であり、不完全な人間への信仰は、その信仰をも欺瞞的で不完全なものとしてしまいます。


教義内容を信仰の対象にすれば、人間の知恵に限界が来ます。
論理の矛盾や、解明されてない科学の分野で頭打ちを食らったり、歴史、文化、風習の違う人間に等しく該当するとは限りません。

キルケゴールの言葉を我流に訳せば

「そこに神を感じたか?」

と、なります。

「ホームラン予告」してそのとおりホームランを打てば「神様、仏様」とスポーツ紙を賑わすでしょうが、勿論その選手=神ではなく、起きてほしいことが起きたことや、稀有な瞬間に立ち会えたことや、それを関連付けてドラマやメッセージを描く「流れ」とか「法則」にこそ、「神」を感じることは可能なのです。
芸術や倫理や知恵(理性)による「壁の向こう側」が重要なのです