思惟と存在 1 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

現実に目の前に有り、手に取ることが出来るリンゴと、私達が頭の中でイメージするリンゴは同じでしょうか?

「存在する」とは単純に生きてるか死んでるかだけの話だけでは解決しません。
不安から体調不良を引き起こしたり、イメージトレーニングの成果で勝利に導いたり、離別してもなお、友達家族の言葉や笑顔に支えられることもあります。
文中の「思惟」という単語を「想像する」や「イメージする」に変換すると解りやすいかもしれません。


以下、キルケゴール著「哲学的断片への結びとしてのあとがきより」

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考えることは、創造すること、現存在を付与することと同じであろうか。
思惟と存在が一致するという哲学的命題に対する愚かな攻撃に向かって、どのような非難がなされたかを私はよく知っているし、その正しさを喜んで承認するであろう。

例えば薔薇を考えることによって造り出すといった仕方で理解されてはならない。
(中略)
例えば理念についてそのことが妥当するのであろうか。
善や美などの理念は、それ自身非常に抽象的であって現実の存在者に対して無関心である。
つまり思考の存在以外のものに対して無関心なのである。
したがって、ここにおいて思惟と存在の同一が正しい理由は、存在ということで思惟以外のものが理解されうることはないからである。
(中略)
私が善を考えるから、私は善そのものなのであろうか。
あるいは、私は善を考えるから善良なのであろうか。
決してそうではない。(中略)
私が考えることができるためには、私は実存しなければならず、また私がその中で実存するためには、考えることができなければならない。
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はい、哲学書ってなんでこんな難しい言い回しをするんでしょうね(笑)。
これでもまだ、キルケゴールは解りやすい方ですよ(笑)。

はい、「善」や「美」はイメージしにくいけど、「じゃあ『愛そのもの』をここに持ってきて」と言っても不可能ですよね?
でも、『愛そのもの』をイメージすること、それを考えてる自分は常に生成し、変化し続けている現実存在なのです。

「犬」をイメージする時、図鑑や動物番組から画像を引っ張ってくる人はたくさん居るでしょう。
また実際に自分が飼っているペットの○○ちゃんをイメージするでしょう。

問題はそこです。
知識と弁論や教理の中における「犬」について話す時、「私のペット」の話は万人に共通の「犬」に該当しないのです