新学年に上がった小学生の娘の最初の学級通信に
ケンカは最後まで!
と書いてあった

担任の先生は学校内でも超人気の女性
明るくてこだわりがなくて、
遠足で豚汁を作って振る舞ってくれたり
顧問をしている部活メンバーの一人一人に名前入りのアイシングクッキーを作ってくださったり
愛情もいっぱい


ケンカは最後まで!
仲直りまでしようね
ということなんだけれども、私には先生が
感情は最後まで!
と教えているように思えた

日本は文化的に
言いたいことを我慢する事が美徳とされたり
自然な感情表現が歓迎されない風潮が未だにある


最近の傷害事件で多くの加害者が「(対象は)誰でも良かった」と語ることの異様さ。
心身症やうつ病の診断を受けていない潜在的な予備軍はかなりの数に上るはずで、社会問題といっても良いと思う。


ゲームのリセット機能や、映画の暴力描写、テロ組織の報道が与える影響よりも、もっと深刻なのは感情を感じ、感情を味わい切る機会と習慣の喪失だと思える。


こうした自然な感情を排除した状態を
悲哀排除症候群と名付けた研究がある。


「対象を失うことの悲しみをどう悲しむかは、人間にとって永遠の課題である」。悲しみという「仕事」は「人はどう生きるか」という「永遠の課題」に深く関わる。現代人は人間としての成長、成熟に必須の課題である「悲哀の仕事」から逃げていく傾向がある。
「悲哀の仕事」とは「失った対象への断ちがたい思慕の情に心を奪われ、怨み、憎しみ、つぐないの心が錯綜する。「悲哀の仕事」とは、これらの反応を一つ一つ体験し、解決していく自然な心の営みのことである。この悲哀のプロセスを達成することができない場合、心身の病いや心の狂いが生じる。」

  対象喪失は、どんなに人間があがいても、その対象を再生することができないという、人間の絶対的有限性への直面である。
  ところが現代社会は、人類のこの有限感覚をわれわれの心から排除してしまった。
  全能感に支配された人間には、対象喪失の悲哀は存在しない。かけがえのない絶対に代りのきかない存在は、心から排除されてしまうからである。
何を失っても人工物によって代替できるという全能感のもとでは、大事な他者の死も自ら自身の死さえも「悲哀の仕事」の機会とならないのかもしれない。
 そしてまたこの動向は、自分にとって苦痛と不安を与える存在は、むしろ積極的に使いすてにし、別の新しい代りを見つけだすほうが便利だし、実際にそうできるという全能感を人びとにひきおこしている。死んで葬り去れば縁がなくなるし、醜く年老いた者は実社会から排除すればよいし、うまくいかなくなった男女は別れて、それぞれ新しい相手を見つければよい。できることならば、学校や職場も気に入らなければ、自由に変えられるほうがよい。


小此木啓吾著
 『対象喪失─悲しむということ』 中公新書 



感情を感じ切る、最後まで出し切って味わうとは
それに対する自己と他者の反応を一つ一つ体験し、解決していく自然な心の営みのことである


このプロセスを省いて成長すれば、当然自己の反応も体験せず解決もできぬまま精神的に未成熟な大人になってしまう。



十分な反応と解決がなされないことが、うつ病の原因とされる異常反応(普通は怖くないものが異常に怖く感じられる)が作られる大きな要因の一つになっているのだと思う。


自分にとって不都合や不安を与える対象は、葬る。
自分の感情に対してその作業を当たり前に行っていけば、些細なきっかけでやがて葬る対象は自分自身や他者に容易に代わっていく。


1人でも多くの子供が、子供のうちから最後まで感情を感じ切るプロセスを体験することが出来るよう
1人でも多くの先生と大人が、子供たちが安心して感情を表現し味わい尽くすための環境を提供すること。

そのためにもまず大人自身が、十分に自分の感情を感じ味わい尽くすこと



国家存亡をかけて大人全員が全力で取り組んでいくべき課題だと強く思う。