日本の教育とその問題(12) | 《太陽水素文明への道》

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このブログは、マスターのミクロ/マクロ問題に関する私見を述べたものです。

11 教育の成果管理と問題点

「新教育」には様々な長所がある。特に、それは①「書物で学ぶだけ」の学習の限界を指摘、実物教育を重視し(経験主義)、②教科分断の弊害を指摘、統合を重視した(統合主義)。

しかし、③夢想的「児童中心主義」のために子供の自発性を過大評価し、④基礎訓練と系統性を軽視、⑤ゆえに教科統合を達成できない。したがって、経験主義に系統主義を附加するだけでは足らず、系統主義を中心として経験主義を附加する方針に切り替えなければならない。

このように問題を整理すると、最後に問題になることがある。どうやって教育成果を管理するのかということである。

「そんなことは簡単だ。試験をやればいいではないか」──誰もがそう思うに違いない。

しかし、よく考えてみると、問題はそう簡単ではない。実際、教育成果を妥当に管理するのは大変なのである。

以下、このことについて考察する。

(1) 教育評価とはなにか

成果管理には教育評価(Educational evaluation)が必要である。それには様々な種類がある。

(a) 評価種別

①成績評価:教師又は第三者が児童・生徒・学生を対象に行うもの。

②授業評価:教師の授業を対象に行うもの。

③学校評価:学校を対象に行うもの。

以後①を中心に考察し、②③は最後に簡単に触れる。

(b) 評価尺度

①相対評価:本人の成績が他の生徒の成績に対して相対的にどういう位置にあるかを評価するもの。

②絶対評価:到達すべき学習項目について、本人がそれをどの程度達成したかを評価するもの。

③到達度評価:本人の達成が合格水準を超えたか否かだけ評価するもの。広義には絶対評価に入る。

④認定評価:本人の達成が教師の納得のいくレベルに到達したと認定されるか否かだけ評価するもの。

⑤個人内評価(進歩の評価):本人のこれまでの達成に対して進歩があったか否かを評価するもの。

①~③は客観性が、④⑤は主観性が高い。①は競争的評価に、②~⑤は非競争的評価に用いられる。

(c) 評点方法

①n段階評価:相対評価による場合は相対成績により、絶対評価による場合は課題達成率により、いくつかの段階に割り振る方法。3段階、5段階、10段階など、段階設定は様々である。

②観点別評価:観点(理解度、実験・実習への態度、表現力、関心度など)別に、その有無で評価する方法。

(c) 評価機能

①診断的評価:学習指導を行う前に実施し、指導前の学習者の学力や準備状況を評価する。教師はこの情報を元に指導計画を立てる。

②形成的評価:学習指導中に実施し、指導内容を学習者がどの程度理解したか評価する。教師はこの情報を元に指導計画を変更したり、理解不足の教科部分、理解不足の学習者に対して補充的指導を行う。

③総括的評価:学習指導終了後に行い、学習者が最終的にどの程度学力を身に付けたか評価する。成績として直接使用するほか、教師が自らの指導を省みる材料としても用いることができる。

(2) 成績評価の諸問題

(a) 成績=学力ではない

いかなる形の試験にせよ、測定できるのは「その日、その時」の《成績》であって《学力》そのものではない。実際、例えば、どんなに優秀な生徒でも高熱を発して試験を受ければ良い成績を取ることは難しい。

したがって、真の達成を明らかにする機会は複数与えるべきである(追試など)。

(b) 評価・測定・精度の限界

今日、教育の成果を客観的数値で測定しようという考え方は当然のように思える。実際、19世紀末のアメリカでは、それまで用いられていた口頭試問や論述試験の場合、評価者によって得点が大きく左右されることや基準の曖昧さが影響するという欠点を持つことが批判されていた。

そこで、アメリカの心理学者・教育学者エドワード・L・ソーンダイクは1904年に『精神的社会的測定学序説』を著し、客観測定を導入することにより、教育の合理性や教育効果の向上、試験などの改善を図ろうとした。これを《教育測定運動》という。具体的には「客観テスト」、すなわち満月×式/選択式/空所補充式試験である。その極限がコンピュータで自動採点可能な「マークシート式」ないし「OCR式」試験というわけだ。

しかし、こうして整理してみれば明らかなように、客観テストには重大な限界がある。それによって測定できるものは《真の学力》から相当離れたものでしかないということだ。

そのことは、我が日本の「マークシート式試験」の代表、大学入試センター試験を見れば明らかである。確かによくできた問題で、相当程度の学力が測定できるが、それでも論理的推論、批判的検討、創造的総合といった高次の知的過程を測定することは難しい。ゆえに、東京大学を始めとする超一流大学は、今なおセンター試験を「一次選抜=足切り」としか位置付けていない。

また、試験で細かな点数をつけるのに適さない教科も重要であることに注意しよう。

なるほど、教養科目=英数国理社に分類される科目ならば、筆記試験で効果測定する意味がある。しかし、測定精度に限界があることは明らかだから、素点を100点法でつけたとしても、最終評点は5~10段階程度に丸めてつけるのが妥当である。実際、現在では、大学を含め、ほとんどの学校がそうしている。

一方、実技系の体育・芸術などはあまり細かな点数をつけることに適さない。最初から5~10段階評点とするのが限界である。

さらに、ある意味でもっとも重要な道徳系科目に至っては、そもそも「成績」をつけること自体に意味があるかどうか、はなはだあやしいものである。教育の最終目的は《人格の陶冶》=潜在能力の全面解放だが、人格そのものを採点できるわけもない。

だから、点数評価できないからと言って「主要5教科」以外の教科を無視してはならない。主要5教科の達成は教育の必要条件でしかなく、十分条件ではない。他の教科や人間性の達成においても合格水準になくてはならない。

結局、測定可能なのは《学力》の一部でしかない。成績評価を行う場合には、そのことを肝に銘じておかねばならないのだ。

(b) 測定費用と業者テスト

客観テスト問題を作成し、これを公正に実施し、きちんと採点するするのは非常に手間と時間がかかることに注意しよう。実際、日本の大学・高校・中学入試は毎年大変な手間をかけて実施している。

もしも定期試験に入試ほどの客観性と水準が必要ならば、到底学校単位で実施できるものではない。このような現実を背景にして登場したのが中学校の「業者テスト」と呼ばれるものである。

これは、出版社などが主催して広域実施していた、言わば公立中学校の《広域統一定期試験》である。同時に、そのまま高校入試模擬試験でもある。会場として中学校内を用い、安価ではあれ有料で、ほぼ毎月、しばしば正規授業時間内に実施した。採点結果とともに偏差値(統計的客観相対評価)と志望校合格可能性(過去のデータによる確率的評価)を記した成績票が返送される。学校単位では決して手に入らない、高信頼性データである。

『学校における業者テストの取扱い等について』(昭和五一年九月七日文初職第三九六号各都道府県教育委員会あて文部省初等中等教育局長通達)は、当時の業者テストの実態を詳細に報告した上で、①進路指導を安易に業者テストに依存するな、②業者テストを授業時間中に行うな、③教師は業者から金品を受け取るなと通達した。

しかし、その後も業者テストの授業時間外校内実施は続き、1992年には弊害ありとしてマスコミに大きく取り上げられた。このため、文部省(鳩山邦夫大臣、寺脇研官房審議官ら)は1993年2月に通知を出し、中学校の進路指導から業者テストと偏差値を追放させた。『平成11年度 我が国の文教施策』はそのことをはっきり「業者テスト廃止」と表現している。

もちろん、当時、テスト業者は大変な衝撃を受けた。しかし、やがて学校の代わりに進学塾と手を結び、塾などを模擬試験会場として利用するようになった。かくて公立中学校の教師たちは進路指導の大部分を進学塾と業者テストに委ねることとなったのである。それは中学校の進路指導の空洞化を意味していた。

実際、例えば埼玉県の北辰テスト(主催:北辰図書)は、現在も私立高校などを会場に県下公立中学3年生の90%以上を集めており、県内私立高校の中には同テストで一定以上の偏差値を取った生徒に対して入試以前に内定を出す学校が多数あるという。東京でも、難度によって受験者層は異なるが、最難度を誇る駿台学力テスト/高校受験公開模試(駿台教育文化センター)を頂点に、Vもぎ(進学研究会)、W合格もぎ(新教育研究協会)などが鎬を削っている。事態は全国どこでも同様である。実態分析を行わない、理念だけの「業者テスト・偏差値追放」は、単に中学校と進学塾の「悪しき共生」を進行させただけであった。

(c) 高校入試廃止論と内申書

このような現状を憂える識者の中には「いっそ高校入試を全廃して、すべての中等教育を6年制中高一貫教育にしてしまえ」という意見もある。それは、事実上、高校を義務教育化することを意味する。ほぼ100%の高校進学率と「公立高校無償化」によって、今やそれが決して夢物語ではなくなっている。

しかし、学歴インフレーション、大量の中退者、そして教育困難校の輩出という現実の中で、ただ高校受験を無くすことに一体どんな意味があるだろう。成果管理もせずに子供たちを進級/進学させれば、小学校から12年間遊びまくるだけである。彼らは留年や受験があるから勉強するのだ。何の歯止めもなければ子供をダメにするだけである。だからアメリカでは近年、小学校4年、中学2年、高校3年の3回(4年ごと)、州主催の統一進級/卒業試験を行うことにしたのである。日本も倣うべきであろう。

私見だが、中学受験で頑張らせることにして、高校受験は廃止した方がいい。というのは、その方が教育効果が高いのと、中学入試/大学入試と異なり、公立高校入試では内申書(調査書)の記載内容を点数化して処理し、評価の対象とするからである(内申点)。それは、もともと「チャンスは1回」という受験の逆作用を緩和するための措置であったが、公立中学校の教師たちに子供の生殺与奪の権を与える結果となってしまっている。「ちょっとでも先生に逆らえば内申点を悪くされる」──それが、日本の公立中学校を荒廃させているもう一つの原因である。

(3) 授業評価と学校評価

教員自身や教員同士、第三者による授業評価は大いに推進すべきである。しかし、児童・生徒・学生による評価は有害無益である。彼らには評価する能力がないから、結局は教師が生徒に媚を売り、ご機嫌を取るようになるだけである。

学校評価にはいくつか論点がある。

まず、公立義務教育機関を競争状態に置くことには賛成できない。地域格差を助長するだけだからだ。それよりも教育の成果管理と結果責任制を導入すべきである。

大学について言えば、日本では自己点検・自己評価を行ってその結果を公表することを義務付けられているが(学校教育法69条の3第1項)、実際にはほとんど機能していない。

第三者評価はと言うと、アメリカでは教育の認証評価制(educational accreditation)が確立し、厳しい認証評価を受けた教育機関のみが正規学位を発行するでき、高等教育機関の質が保証される。しかし、日本では一旦大学として認可されると事実上野放しで、近年できた認証評価制も厳しさが欠如しており、十分機能していない。実際、底辺大学の一部はアメリカの一部非公認大学と同じ「学位販売所」(diploma mill/degree mill) になり、学位をカネで売っていると言われても仕方がないくらい卒業要件を緩めることで学生を集めているのに、それをきちんとチェックできていない。教育の頽廃、ここに極まれり。

結局、日本では巨大予備校という《大学格付機関》の評価しか機能していない。しかし、それは主として受験的な観点からの格付けで、大学に対する十分妥当な評価とは言いにくい。

今後、全社会的に、教育の妥当な成果管理と結果責任制を徹底すべきである。