アイ・オープナー~今日に至るまで | ジョン・コルトレーン John Coltrane

アイ・オープナー~今日に至るまで


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コルトレーン、ヘロインを断つ 目次



コータ単独トーク会&デュオ・ライヴ<その3>



<その1>「コータ姐、自身を語る」

<その2>「女性性の抑圧と性的虐待」 のつづき



こうしてコータ姐さんは心(或いは脳)の真実に従って明確に女性への転身を図るのですが、現実の社会においてトランスジェンダーとして実際に生きていくとなると、実に様々な問題が起こってくる。バックグラウンドについて語るパートの後半は転身後にコータ姐さんが潜り抜けた試練とさらなる覚醒、そして現在に至るまでが語られました。



ジョン・コルトレーン John Coltrane-Kota talks
話に聞き入ってしまい、
トーク中に撮った写真はこれ1枚だけでした。



コータ姐さんの望みとしてはそのまま家族として結婚生活を続けたかった。しかし妻にカミングアウトした時、彼女には既に愛人がいた…。


性を変えるというのは本人にとって大変に大きな出来事なのはもちろんなのでしょうが、家族、妻、友人、社会的地位等々、諸々の人間関係に大きな影響を与えずには済まされない。殊にコータ姐さんには日本球界の前哨としてMLBと交渉し仕事するという責任ある立場があった。いきなりの転身で皆に迷惑をかけるわけにはいかない。


そういった諸々が一緒くたになり、このままでいいのか、それとも駄目なのかと揺れ動き煩悶する状況が1年も2年も続いた。家族や友人たちから嘲笑され、果たしてこのままでいいのか…(ちなみにその頃 Reimiさんやこの日駆けつけた飯田さんと出会った)。



懊悩・煩悶の振り子を振り切らせたのは裁判所を通じて受けた妻からの離婚通知だった。受け取ったその場で、ある有名な橋から投身自殺を図る。幸い未遂で済んだが精神異常者としてレノックス・ホスピタルに強制入院。しかしこの時の体験がヒーリング・インストゥルメンタリストとしての「コータ」へと導く天啓となる。


精神病棟の休憩室には5弦しか張られていないナイロン・ギターがあった。コータ姐さんは許可を得てそれを弾き始めた。弦が欠如しているために工夫しながら弾かなければならなかった。だがその不自由さと苦心が創造性を刺激して数曲「降る」。初めはあくまで自分のために弾いていたギターだった。


ところが精神病棟の患者たちがギターで自作曲を弾くコータ姐さんの周りにいつしか集まり出す。そしてコータ姐さんは音楽の持つポテンシャル、他ならぬ自分自身の演奏が持つ効力に気付く。精神に異常をきたして社会人としてはまともに機能しなくなってしまった人々の心を、自分のギターが確かに動かしているのをまざまざと実感したのだ。


このレノックス・ホスピタルでの体験がアイ・オープナーとなり、現在の音楽活動へとダイレクトにつながった。コータ姐さんが言語では分節不可能な自身の「憂い」を音楽によって表現する。するとそこには聴く者の心を穏やかに鎮め癒す効果が生ずる。コータ・ミュージックの原点であり、核心です。



帰国


かくして処々方々を転々とし、財産を失い、家族を失い、仕事も失って、やったとしてもウェイトレスの類しかなくなり、徐々に米国の経済状況も悪化していった。そこでコータ姐さんは引き寄せられるようにして去年の4月、日本に帰国する。


しかし帰ってきたのはいいものの、日本ではほとんど仕事を得られない。去年の6月には立教近くの池袋西口公園で寝泊りすることもあった。そんな中、高田馬場のあるライヴ・ハウスに認められ、住み込みでウェイトレスをやりながら弾き語りで出演。一方野球界ではコータ姐さんが何も告げずに突然消えたため、「コータはどこへ行った」「コータはどうなった」と騒然となっていた。そうするうちコータ姐さんがその小屋に出演していることを新聞が探り出し、またサン・ミュージックに認められ今日に至っている…。



「コータ」という名前について


そしてバックグラウンドを語る締め括りに名前について。なぜ女性になっても「コータ」という名前を変えなかったのか。この「浩太」という名前は、父方の祖母によりコータ姐さんが生まれる前に、東京中の鑑定士に相談して付けられた。だが祖母はコータ姐さんが生まれる2日前に自殺してしまった。それが恐らく、自分がいけないから、自分が至らないからといったマイノリティ、あるいは「アウトサイダー」としてのコータ姐さんに特有の認知傾向とリンクし、消し去ることのできない「原罪」として意識されている(? このような捉え方でよいかどうか、心許ないです。いずれコータ姐さん自身に聞いてみようかと思います。あるいはご自身が改めて述べる機会があるかもしれません)。


しかし今、「コータ」というかたちで自身に対して正直に生き始めて、女性として生きているにもかかわらず、不思議と初めて本当の「コータ」になりつつある、ますます「コータ」らしくなってきているんじゃないかという実感があるとも。



女性になって…


トークの最後は女性になって思うこと、女性になって気付いたこと、経験したことが語られました。


トランスジェンダーとして自身の内に女性性と男性性を抱えそのバランスを取りつつ生きることの困難さ、責任。


ホルモン療法によって月経前症候群が誘発され、辛いと同時に喜びを感じること。


女性に固有の愛情・友愛について。女性になった時、男性の友人たちの4割があからさまな嫌悪を示して去っていったが、女性の友人たちは一人も去らず、同じ仲間として受け入れられたということの、男性の組織の中にいた人間にとっての新鮮さ。



新宿2丁目、虹の共同体


新宿の2丁目について。世界の各都市に性的マイノリティの集まる街があるが、悲しいことにどこでも起こってしまう現象として、ゲイ、レズビアン、トランスジェンダーの人々はそれぞれ自分たちの中に垣根を作って決して互いに相容れることがない、ということがある。ところが日本に帰国して驚いたのは新宿の2丁目には全く垣根がなかったこと。文字通りの rainbow coalition(虹の共同体)。感嘆したのはコータ姐さんばかりではなく、今世界中から注目される場所になっているとのこと。


日本には歴史的に性的マイノリティを認め受け入れる非常に穏やかな土壌があるということについて。侍の時代の「お稚児さん」、巫女、シャーマン。余談として、性的マイノリティがシャーマンとしての役目を担うのは万国共通であること…等々。



以上がコータ姐さんによるトークの概要です。ただし、あくまでこのブログの筆者の視点から要約したものであり、そこには自ずと筆者の解釈や誤解が含まれることになる。必ずしもコータ姐さんが語ったことそのままではないことをお断りしておきます。決して鵜呑みにしないよう願います。事の詳細・正誤についてはコータ姐さん自身に直接質されんことを。




Q&A


トークの後は来場者から質問を募り、コータ姐さんがそれに答えるQ&Aが行われた。


女優の「カンナ」さん、タレントのジョン・オコーナーさん、ニューヨーク時代に出会った飯田さん、今回の会の企画・運営者のReimiさん、コータ姐さんの幼馴染で編集者の田中シゲオさん、そして女性の来場者の方、計6人から質問が出ました。


それぞれの質問は割とシンプルなものだったのですが、質問へ的確に答える一方、コータ姐さんは臨機応変にそれを敷衍してトーク同様滔々と語り、見事でした。


やはり語るべきことが沢山あるというのは強い。男性時の経験と、今新たに女性になっての経験、その差異でご飯大盛り10杯は食べれる。譬えが変か。(>_<)


トランスジェンダーのブレイン・ケミストリーによる説明や、歴史が浅いため臨床データが少なく、まだほとんど知られていない身体的変化が現れたりといった、とても面白く、また非常に興味深いエピソードが沢山あったのですが、それはまたの機会に言及するとして、ここではコータ姐さんのトークを補足する2点だけご紹介しておきます。




責任


まず、トークの後半で語られたトランスジェンダーとして生きる困難と責任について。「困難」については割と想像しやすい。ホルモン治療の副作用・リスクに加え、職探しが難しいといった対社会的な生き辛さというのはなんとなくわかります。


だが自身の内で女性と男性、性の狭間にあって両性のバランスを保ちつつ己の真実を貫くことの「責任」とは何か。


トランスジェンダーはホルモン治療による内部のケミカル・アンバランスのために寿命が極端に短いと同時に、自殺率が60%と非常に高い。トランスジェンダーの人々は固有の宿命を負っており、どんなに頑張っても本当の女性にはなれない、本当の男性にはなれないという非常に辛い現実に対する認識がある。そのことが社会的な適応性の問題と相俟って自殺に追い込んでしまうという側面があるのではないかとコータ姐さんは説明する。とすると、コータ姐さんがこの名前で、コータというかたちで生きていくことが、おこがましいことではあるが、そういった人々にこんなやつでも頑張っているんだということを示すことにもなる。そうなれば、とコータ姐さんは思っている。つまり、それは同じ難しい立場に立つ同胞に対する「責任」ということになるのだと思います。




"happy"


そしてもう一つは、そのこととも関連しますが、トランスジェンダーであること(自分の性の在り方、と言った方がいいのかな)を自身が承認し受け容れたことの良い面です。


例えば、コータ姐さんが過去の性においてビジネスマンとして生きていた時には何千万も稼げる状況にあった。しかしどこかしら心の中が満たされていなかった。今はそれこそ寅さんのように絶えず500円しか持っていないし、電車賃だけで毎日過ごしている状態だが、それでもやっぱり "happy" だとコータ姐さんは晴れやかに述懐する。


貧しいが心の中は満たされている。自身が改めて引き受けた名前であるコータ、本当のコータに一歩一歩近づいている気がする。それが今の幸せであり、幸せの要因を見出し始めているということ。


それこそ自分自身が何者であるかわからなかった時、アメリカでのハイスクール時代、ありとあらゆる薬物に手を出したりいろいろしてなんとか自分を define しよう、自分はこういうものだという風に表そうと思ったが、それはできなかった。


しかし今はこのままでいることがセルフ・ハイで、「コータ」であることを、内面を見つめれば見つめる程、それは辛くて常に泣き出してしまうような作業なのだけれど、そこには必ず浄化作用のようなものがあって、このままでいることが happy に繋がっていっている。


そして、女性になった時に去って行った4割の男性の友達が今ではほとんど戻ってきており、それはもしかしたらコータ姐さんが虚勢でも面白おかしくでもなく、今こういうかたちで生きているということを、みんなが段々認め始めてくれているということなのではないかと、コータ姐さんは思っている。



過去の事実を変えることはできないが、その意味・意義は現在の生の在り方から逆照射することで変えることができる。コータ姐さんがしばしば記すように、偶然など一切なく、全ては必然なのであるとすると、コータ姐さんの過去に起こった諸々の体験・出来事に無駄なことは一つもなかった、のではないかと拝察します。つらい思いをした3歳の浩太くんが、今、「コータ」に転身した自身によってケアされ、救われつつあるのかも知れません。



Q&Aの後はいよいよ Kota & Shige のライヴ。言語による分節からはすり抜けてしまう感情が託されたコータ姐さんのオリジナルの演奏、つまりはトークで話されたことの実質が、音楽で表現された。


とはいえ、拙い要約ではありましたが、ご覧の通り、トークは非常に濃い内容でした。この日の来場者はフォトグラファー、映像ディレクター、グラフィック・デザイナー、俳優、声優、ヨガ通訳、ダンサー等々、クリエイティヴな仕事に携わる人たちが多かった。そのため会終了後、コータ姐さんは自身のトークの出来をとても気にしていましたが、自分は緊張感のある良いトークだったと思います。金目当てにわかりやすいアホアホなものばかりが横行する昨今、そんなものに飽き飽きしている人々には非常に聞き応えのあるトークだったのではないかと思います。ただ毎回長時間緊張を強いられるとフリー・ジャズのライヴと一緒で客足遠のくかも? (>_<) しかしその辺の程合いは有能なビジネスマンだったコータ姐さんご自身が良くわかっておいででしょう。トークと演奏を交互にすればよかったとか、いろいろアイディアも出てきていたようでした。



「Kota & Shige Duo Live at Atelier Du Vin」 につづく


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