コータ姐、自身を語る
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コータ単独トーク会&デュオ・ライヴ<その1>
去る10月3日土曜日の午後、アトリエ・デュ・ヴァン という所で催されたコータ姐さん の単独トーク会&デュオ・ライヴに行ってきました。
先月行われた"ハーフ" についてのイヴェント「2分の2」
をきっかけに企画されたコータ姐さんをメインに据えた集まりです。
限定20名でしたので、コータ姐さんと直に触れあえる貴重な機会でもあった。
とはいえ、講演はハードでディープなコータ姐さんの実人生を語るシリアスなものだったので、自分は終始神妙に聞き入りました。来場された方の多くも同様だったのではないかと想像しますが、非常に入り組んだ、だがそれゆえの魅力を持つ「コータ」という存在をさらに深く、突っ込んで理解するよいきっかけだったのではないかと思います。
会はまずコータ姐さんのトークとそれを踏まえてのQ&Aで約1時間。
次にコータ姐さんとshigeさんのギター・デュオによるライヴが20分ほど。
その後再びQ&Aがあり、最後に和気あいあいのサイン会で終了。
そして来場者に別け隔てなく声がかけられた打ち上げは先月の会場でもあったラス・チカス
で行われました。
TALK
この日の午前中、コータ姐さんは商社マンを対象にした講演で既に一仕事終えた後この会に臨んだため、座ってのトークでした。そのことの断りとお詫びを一言述べてからトークに入る。
余談ですが使用のマイクは直前に渋谷で安いのを買ってきたという。が、shigeさん が大磯から持参したローランドのマイクロ・キューブ(小型のアンプ)に繋げようとしたらケーブルがない。そこでshigeさん、渋谷までひとっ走りしてケーブルを買いに戻った。でもマイクより値段が高かったそうです。(>_<)
トークは約35分ほど、コータ姐さん自身のバックグラウンドについてほぼ途切れることなく話された。ブログ『コータ姐の涙と笑いのトランスジェンダー道』
や『WBCの内幕』
(WAVE出版)等で分散して明かされてきた事実がすっきりと一つに纏められており、またこれまで言及されたことのないようなその意味・意義についても触れられているので「コータ」入門そして再入門に最適の内容でした。
文化・言語の狭間で
トーク前半では新聞記者だった父親の転勤に伴い、ロンドン、ニューヨーク、日本、インド、再び日本、そしてロサンジェルスと、4歳から始まってハイスクールを出るまで、海外の都市を転々と移り住んだ「旅」の軌跡を辿った。
異なる言語・文化間の差異、そして人種的偏見を多感な時期に身を以って経験したこと、つまり「コータ」という存在を形成する3つの重要なファクターのうちの一つです。
4歳の時に移り住んだ最初の地、ロンドンの下町にはインド人や中国系等、旧植民地下の国の雑多な人々が住み、言葉はイギリス人でさえ理解しがたいという「カクニー」訛り(*)が使われているというような環境だった。
(*)「コックニー訛り」のコックニーを正しい発音で。
そのため子供として外で感じたこと、経験したことを家に持ち込んでも全く通じない、両親に聞いても全然わからないという事態に直面し、浩太少年は自分の中に壁を作ってしまうことにもなった。
(子供というのはある時期まで親は完全だというファンタスムに守られて成長していくという面があり、経験を重ねていくうち徐々に「どうやらそうでもないらしいぞ」ということに最初は否認しつつも気付き、一歩一歩自立への準備が為されていくものだと思いますが、異文化と接触することをきっかけにそのような幻想のほつれ目に出くわすというのはコータ姐さんに特徴的なことのようで、非常に興味深いです。あくまでこの体験の一つの側面ということですが。)
次に移ったニューヨークの下町ではロンドン以上に人種が雑多で言葉もその影響を受けており、ロンドンの下町英語では全く通じない。最初の1ヵ月ほどは口をつぐんだ状態が続いたが、子供特有の柔軟性であっという間にニューヨークの下町言葉に慣れていったといいます。しかしその間日本語が覚束なくなり、束の間の帰国時には小学校2年生に編入するところを1年生からやり直し…。
こうした、違和を抱えつつも急速にその地の生活に順応していくということを、幼少期から青年期へかけ、コータ姐さんは行く先々で繰り返す。
ラジオもテレビもなにもないインドから、『仮面ライダー』、札幌オリンピック、『太陽にほえろ!』等々情報渦巻く東京へ。また自分の意志で自由に行動し遊ぶ日本の中学生と親がかりでないと行動できないカリフォルニアの中学生との精神的な年齢・意識の差。そして70年代アメリカの日本人観のレベルの低さにひどく傷つく…等々、様々な位相での文化間のギャップを潜り抜けてきた。
一所に長く留まることがないので安定した帰属意識がなかなか形成されなかったのではないでしょうか。というか、普通の日本の子供だったら地域なり文化なりにどっぷり浸って殊更に「帰属」を意識することはない。コータ姐さんの場合「帰属」が心もとないが故に強くその欠落が意識されたということなのではないかと推測されます。
ロサンジェルスでのハイスクール時代には後述される自身が抱えていた問題(「コータ」形成ファクターの残る2つ)が徐々に噴出し始め、常に部外者であるという意識が一層強まっていったのでしょう。当地ではいろいろ問題を起こしてハイスクールから放校処分を受け、士官学校にほとんど強制入学というかたちで入れられる。
「士官学校」というと聞こえはいいが、実質は「感化院」で全米から集まったワルをいかに更生させるかというような学校だった。そこで Kota Ishijima or 石島浩太は益々悪くなり、悪行の限りを尽くす。
ただ、絶えず付き纏う寄る辺なさ、部外者であるという意識は異なる領域間を媒介する能力を培い、二言語の習得と共に、通訳やエージェントの仕事で後々大きく役立つことになる。そしてまた、今回は詳しく触れられることはなかったが、共感を得られる仲間もないその不安定な孤独に息つく間を野球や美術・音楽に見出したのもハイスクール時代だった(のだと思います)。
ハイスクールを終えた後はカリフォルニアを去り、両親が戻っていたニューヨークへ行き、パーソンズという美術大学に入る。3年生の時に電通Y&Rにスカウトされ、以後アートディレクターとして4年間実働、その間にある女性と出会い、結婚。
しかし電通Y&Rの4年目に、当時親交のあったダイエーの創設者、故中内功会長から福岡ダイエーで通訳や渉外担当をやってみないかと声がかかり、石島浩太は妻に相談することもなくこの話へ即座に飛びついてしまう。
だがなぜ成功を収め安定した生活の約束されたアートディレクターという華々しい地位をあっさり捨てて野球界という全く異なる世界に身を投じてしまったのか。コータ姐さんの人生における非常に重要なポイントの一つであるゆえ、後述されることが予告されるも結局触れられなかったが、後に訪れるもう一つの大きな転換点の自己分析によって読み解くことができるので、この「ジャガー・チェンジ」についてはそこで改めて自分が補うことにします。
<その2>「女性性の抑圧と性的虐待」 につづく
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